映画>『カメレオン』

もう公開日が過ぎてしまって、DVDの発売を待つしかないけれど、久々に感動した映画だったので書こうと思う。映画『カメレオン』。
なにがきっかけだったか、公開になったばかりの時、娘が突然見たいと言い出したので、横浜の伊勢崎町に二人で見に行った。神奈川で四館しかかかっていない。出演者やスタッフが無名というわけでもないのに、この扱いは・・・。普通だったら嫌な予感がして敬遠するところだけど、不思議なことに、この時ばかりは根拠もなく『期待していいんだ』という気がしていた。こういう直感は、必ずと言って良いほど的中する。二人揃ってはまった。娘は三回、私は二回リピート。こんなのは何年ぶりだろう。DVDの発売が待ち遠しくてならない。

『カメレオン』というタイトルは、主人公伍郎が、変幻自在であることを表したものだという。仲間に見せる顔。詐欺を働いているときの顔。恋人に見せる顔。敵対する相手に見せる顔。そして、復讐のスイッチが入った憤怒の顔(これは必見)。とらえどころのなさが、とても魅力的だ。象徴的なのが映画の最初のシーン。新宿の裏通りで占いをしている桂子のところに、突然伍郎が現れて「見てくれ」と言う。「老後が心配」だと。伍郎の生い立ちや、置かれている立場がだんだんわかっていく内に、最初に語られた「老後」の言葉が、普通に生きている人間とは比べ物にならないくらい重いのだと悟る。そんな人が、酔って欝に囚われて、その上で心の救いを求めた相手が、もっとより所のない若い女性だったというのはなぜなんだろうと思った。まあ男の人のすることは女性にはもとから理解不能だが。表情がいきなり変わる。スタートからびっくりしてしまう。「なんなの?この人。やくざ?」と思う。次の瞬間、ほっとしてちょっと彼のことがいいやつに見えてしまう。ずるいと思う。かくして、物語は、伍郎という青年の謎を突きつけて始まる。

ところで、好みというものは、ランダムのようでいて、積み重ねてみるとパターンのようなものが見えてくる時がある。そんな私のパターン=ツボは、『ワンマンアーミー』、『漂流感』、『孤独』そしてある種の『狂気』、らしい。それらは、深く絡まりあっている。私が抗いがたく惹かれてしまうそれらの要素を、近年これほど真っ芯に据えた映画があったろうか。

まず、主人公、野田伍郎を含む四人の若者と、三人の老芸人の七人は、廃工場で擬似家族とでもいうべき共同体を作り上げて暮らしている。この漂い生きる空気感というのは、組織に属さない自由と引き換えに抱え込むもの、だろうか。これがとても懐かしい。30年前に書かれた脚本だという話だけど、なるほどと思う。この既視感。昭和の、高度成長が終わってしまった頃の情景によく似ている。貧しい者により冷たく厳しいことでは、現在ともよく似た社会状況だと思う。そのせいか、身よりも、他により所もない者たちが身を寄せ合っている場面は、ほのぼのと暖かくほほえましい。まるで寒い冬の日の、暖炉のようだ。彼らが集団で女性からお金を騙し取る詐欺グループなのはわかっているのに、この姿を見てしまうと、どうしても憎む気になれない。映画を二度目に見たときには、この後にやってくる酷い運命をあらかじめ知っていたから、この暖かさが余計に切なかった。この世で最も弱い群れを、この世で最も強い群れが、情け容赦なく踏み潰すむごたらしさ。だけど、その弱いはずの一人が伍郎だったのが、敵の誤算だった…と。でも、伍郎は飛びぬけて強すぎるから、仲間たちを引っ張り、守る義務を、ひとりで背負う運命にあるんだな、と後から気づいた。仲間がいるのに一人で戦わなきゃいけないのは、もともと一人ぼっちで戦いに直面するよりも、もっと孤独だろう。主人公に漂う、そんな深すぎる孤独が、作り物に見えないほどの実感をもって迫ってきた。とても物悲しい気持ちになる。伍郎がひっきりなしに吸うタバコが、その孤独にとても似合う。火をつけるときに、マッチを擦る仕草も。タバコで荒れた喉を、時々うがいで潤している時の、ちょっと辛そうな顔も。

あと、伍郎と桂子が、何もかも失って、警察からも見放されて、たどりついた海辺でのキスシーン。ふたりとも、着たきりすずめの匂ってきそうな服で、ぼろぼろなんだけど、それでも一幅の絵になるほどの美しいキスシーンであった。これは必見。孤独な者同士だけが表せる美しさっていうか。ただし、それを見ている観客が二人を祝福する幸せな気持ちになっているのを、まあ残酷にも次の瞬間打ち砕いてくれるのだな。スタッフは、さてはドSだな。


次に、アクションがともかく素晴らしい。百聞は一見にしかず。本当に戦うというのは、こういうことではないかと思った。
なぜか、見ていてふいに、ずいぶん昔に見た時代劇の『木枯らし紋次郎』を思い出した。あの殺陣は、衝撃だった。かっこいいヒーローが悪者集団をばったばったと切り捨てていく殺陣が時代劇の主流の当時、喧嘩のような『突き合い』の乱れて雑然とした感じだったからだ。それは命のやり取りの陰惨さと生々しさ、戦いに取り込まれずにはいられないどうしようもない男性の業を表現していた。聞けば、渡世人が持つ安物の刀では相手の太刀を受けることもできず、殺傷するためには突くしかなく、侍同士が名刀で斬り合う無駄な動きのない戦いなど到底できないのだそうだ。だから、この雑な殺陣は歴史的にとても正しい。そして、映像ではほとんど描かれたことのなかった正しさでもある。

『カメレオン』のアクションシーンに、それと同質のリアリティを感じた。敵が仲間に近づくことを妨害し、逃げる時間を稼ぐ一度目のアクション。工場の中のものを手当たり次第に使って、相手を撹乱する、ある種の取り散らかした感じというか、がむしゃらさが、とても本物らしく見え、手に汗を握った。芝居用の日本刀まで出てきて、その一瞬の構図の美しさが目に焼きついて離れない。
リアリティということで言えば、伍郎一人が三人を相手に工場の一階で戦っている時、伍郎の恋人と友達が二階に隠れている。そこに物が倒れたり衝突したりする凄まじい音が響いてくる。怯える二人と一緒に、想像がかきたてられて、戦いの場は、脳内でますます修羅場と化す。こういうところが、理屈抜きに「いいなぁ」と思った。細かいけど。
それから、相手の追跡を振り切る捨て身のカーアクション。伍郎は助手席の桂子に「しとけ」と言って、シートベルトを押し付ける。危機の中にあって、とてつもなく強い恋人に護られる安らかさ。「いいなぁ」と思う。細かいけど。
そして、仲間と恋人の復讐のためのガンアクション。まるで野生のけもののような戦いっぷりだ。これを長身でしなやかにやってのけている藤原さんの身体能力には驚いた。とても意外だった。こんなことができる人だとは知らなかった。『デスノート』の時は、「わーい、コミックのライトそっくりだ」と喜ぶばかりで、それ以上進もうと思わなかった。私としたことが。

こうやって並べてみると、いまさらながら贅沢な映画だと思う。「次」が見たい。