「フライ、ダディ、フライ」-(3)

(3)
2005.7.
5回目、見てきた。スンシンくんの強さ・美しさを余裕もって楽しんだり、鈴木さんの気持ちや身体の変化を細かく感じたりできるようになった。ゾンビーズの魅力も。

映画が公開される前の岡田くんのコメントに「女性に、男ってバカだけど、いいよねって思ってもらえたら」とあった。そんな心配せずとも、ずっと昔から男はバカだと思っておる(笑)。しかし、「忠告はしたからね」と最後を締めくくりたくなるようなバカはともかく、「バカがやれる」という意味のバカはかなり好きなので、それも私に限っては言わずもがなだったな。それでも、サラリーマン生活長いと、なかなかバカやれなくなるみたいなので、決闘のために40日間も有給をとってしまう鈴木さんみたいな人だけが飛べる、というのは、悲しいけど事実かも知れない。バスとの競走での、バス乗車客の『スタメン』は、バカやるのをとっくに諦めてしまった人たちだろう。鈴木さんが飛んだから、この人たちもこれからそれぞれ飛ぶかも知れない……そんな予感を残したシーンだった。それぞればらばらだった乗客同士、仲良くなっていくわけだから。みんなお互いの間合いに立ち入らないような大人になって、まるでブロイラーのようにすし詰めの群衆の中でひとりぼっちで生きている。毎日電車で乗り合わせるサラリーマンの人たち、その人たちの内面もこんな感じなのかねぇ……。この人たちを見てて、プロスポーツが食べ物と同じくらい必要な人たちの気持ちが少しわかった気がした。あの、最後にみんなで「がんばれー」と応援するところとか、拍手するところとか、好きなシーンだった。

それにしても、ゾンビーズもかなりバカだけど、緻密に合理的に物事を進めていくバカというのは、見ていてなかなか頼もしい。美術さんがグッド・ジョブだと思う。壁に貼った成長の記録とか、遥ちゃんに見せるフリップだとか、手作りの献立表とか。そのバカさ加減があって初めて相手が動くというのは納得だ。TVドラマ『ごくせん』も同じテーマだったけど、偏差値の高い高校とおちこぼれ校の対比というのは、物語として割とお約束だ。これは、落ちこぼれがコンプレックスを解消する為にでっち上げた妄想物語だと、優秀校出身の人は思いがちだろう。しかし、学力と同様、団結力というか、事をなす時のコミュニケーション力も人間の力のひとつなので、それが飛び抜けているゾンビーズの姿を描くことにはそれなりのリアリティがある。現行の学校システムは、それを阻害こそすれ、育むことは決してないわけだから。基本的には徒党を組む人間は好きではないのだけど、スンシンが違和感なく中にいられるチームならば、これはこれでいいかも、と思う。チームのカラーは、リーダーが作っている。南方はかなりいい。洞察力と判断力のかたまりみたいな人だ。何かあるたびに、周囲の人間が南方を心理的に頼って判断を待つので、面白い。

ところで、知性と言えば、スンシンの知性というのは高校生らしからぬものだ。ああいうことを普通に言うと、ただのかっこづけだけど、強い人にだけは許される。競技中に派手なマニキュアと化粧してていいのはジョイナーだけ、みたいな。スンシンくんのそれは、大量の読書によって培われた。こういう知性は、学校の勉強ではどういうわけか身につかないのが残念だ。私も高校生くらいの時は、あんな感じで本ばかり読んでいたけれど、だからこそわかる。スンシンにとって本は、自分を守る為の盾でもあるんだな、ということ。読書は、ある種の『やられっぱなし』から解放されるための、大切な修行なんである。人間がそれぞれそ立っている為には、それぞれを支える、形のないものがどうしても必要だからだ。不本意なものに支えられなくて済むようにするためには、自分でそうやって探していくしかない。支配されることから、まずは解放されないと、自由にはなれない。……なのに、自分で培った知性に縛られていくスランプ状態っていうのは必ず訪れるもので……なかなか人生ままならない。
鈴木さんとのふれ合いで、鈴木さんの人柄に引かれて防御が弱くなっていくに従って、鈴木さんのトレーニング中、あたかも隙間時間を埋めるような読書が減っていく。鈴木さんが、自信のない頼りない『おっさん』から、強い男に変身していくプロセスと同時進行で、スンシンも、どんどん表情が柔らかくなっていって……この当たりはファンとしてはこたえられない部分だ。

ところで、差別問題について書かなきゃいけないかな、という気持ちはあるんだけど、ちょっと気が重い。もちろん、原作の、在日韓国人だからと言う理由でダイレクトに敵意を表してくる人間は映画の世界ではいないけれど、日常の生活に関わる部分で、ひっそりとじわじわと差別している、「骨組み」みたいなものは逆に見えてしまったから。スンシンくんの住んでいる、安普請の借家が並んでいるところ、私も再婚して5年間、まさしくこういう感じのところに住んでいた。セールスマンが回ってきて初めて気が付いたけれど、私たちはその一帯に住むべき人間ではなかった。工業地区と隣接した貧乏所帯ばかりが暮らしている街。私たちが、「あえて」貧乏暮らしを選んでいるのとは違う理由で、そこの住人たちは貧しかった。いわば、塀のないゲットーみたいなものだ。ゲットーの中に、カテゴリーの違う人間がいることは、お互いのためにとても良くないことだったろうと思う。スンシンが繰り返し見ている『燃えよドラゴン』にしろ、原作に出てくる『ロッキー』にしろ、お金を握った少数派の人間たちが、自分達の地位をますます固めて、大衆を奴隷化するためにつくった見かけ平等の学歴社会とは、まったく違った価値観で上へ行ける道が、わずかながらも残されている、という夢の物語だ。それが語られるというのは、この世がまったく不平等にできていることの証明である。だから、一見こういうシンプルなお話を作った人から「シンプルな話なんで楽しんでください」と言われると、底意地が悪いんで「ふーん、シンプル、ね」と言ってしまうわけだ。もし二重構造あるんなら、乗るわよ、っていうつもりで。

二重構造と言えば他にもある。何かとお金を矮小化する者は多いわけだけれど、その人のためにお金を使う、ということは、親的な立場にある者がしてあげられる、とても大切なことだと、私は声を大にして言いたい。鈴木さんが、スンシンくんの貧乏を察して、靴をプレゼントするところとか。相手が買えるものじゃなく、自分であればこそ買ってあげられる経済力と、それを出しても少しも惜しいと思わない、むしろ、買ってあげるのが楽しい、という気持ち。そうしてくれる人に『父親』を感じる若者。この図は良かったな。スンシンが刺された時の体験を語った時に、鈴木さんが「お父さんは?」と問うた言葉に、自分が守ってあげたかったという気持ちがこもってて、じーんとした。これがあったから、師匠と弟子の年齢が逆転した、ただの痛快活劇に終わらず、豊かな物語になかったのだと思う。

鈴木さん、部長に出世は諦めろと言われたそうだけど、それは鈴木さんがなくてはならない人材だったからこそ言われた『脅迫』だったろうし、会社に戻った時には、きっと別の次元の出世コースが拓けていると思う。鈴木さん、真面目だから言葉通りに受け止めちゃうんだよね。自分より弱い者に接する態度が、資質として管理職向きだと思う。自分より強い者に屈しない自信もついた、家族の絆も強まってバックスもパワーアップ、そしたら、もう全方位完璧だ。まず、私が同じ会社の社員だったら目を止めちゃう。私が目を止めた人で出世しなかった人はいない。というわけで、もう一回くらい見て来ようと思う。