正直者のはなし

さてさて、お姫様物語で続けようと思ったけれど、最近ずっと『ゲド戦記』の製作日誌を熟読していて、色恋の話をする気分ではなくなっている。で、ちょっとそれから遠い物語をはさんでみようと思う。

日本の昔話には、「正直じいさん」「いじわるじいさん」がペアで登場するパターンの話が実に多い。だけど、「正直」「いじわる」を表すエピソードがあまり語られず、ただ「正直じいさん」「いじわるじいさん」とだけ名前のように連呼される。これが前々から、何となく妙だと思っていた。それについては、ある学者が分析している。これは別に隣のじいさんが特別いじわるだったわけではなく、単に現実主義的で功利的、つまり普通のじいさんであったに過ぎない。隣のじいさんの失敗は、すべて「他人の猿真似をしたこと」に由来している、と。言われてみると、本当にその通りだ。そして、現実にもよく似たことはたくさんある。なんて知恵に溢れたお話だろう。それが「正直」「いじわる」のレッテルを貼られたのは、お話が伝えられていく間に、勧善懲悪の思想が強化されていったからだろう。誰がそんな余計なことを。

ところで、正直なことが必ずしも美徳とも思えないでいる。「正直じいさん」と言われると、何となく優しくて親切な人だと、勝手に決め付けてしまいそうだ。そんなことはどこにも書いてない。「犬を可愛がる優しいヒト」であることは、「女を殴るDV男」でないことを保証しないのだ。「正直」即「いいひと」というイメージは根強い。しかし、「察し合い」の文化を持つわが国においては、「正直」とは、普通、空気が読めないことを遠まわしに指す言葉だ。無神経で傲慢で冷淡で自己中心的で無責任な正直者が、「正直者」の9 割を占めるのだ。なんて言うと、大体の人は身近にいる具体的な「誰か」の顔を思い浮かべることだろう。決して珍しくないことだから。日常を見て認識する世界と、お話を見て認識する世界が、真逆であることに気がつかない、というのは、何だか洗脳めいていて怖いと感じるのだが、どんなものだろう。

最近、物語に限らず、物事に正邪、善悪のフィルターをかけると、物事の本質を見逃しやすくなるのでは、と思い始めている。

日本の童話世界の道徳観は、主として儒教と仏教が担っている。西洋の童話世界の源は、当然キリスト教だ。西洋において、オネスティ、正直が特に美徳であるとされるのは、十戒に記された基本的な戒めであることによる。日本昔話の「正直じいさん」の物語から連想される西洋の童話としては「湖に落とした斧の話」がある。もっとストレートにその「正直さ」が試されるお話となっている。
しかし、前々から思っていたことだけど、「試し」にあわせる、という一点をもって考えても、西洋の神様というのは底意地の悪いキャラクターのようだ。プロのきこり、しかもベテランに向かって、お前が落としたのは、この金や銀の斧だろう、と問うなんて。金や銀のような柔らかい金属で、硬い木を切り倒せるはずがない。使い慣れて手にしっくりなじんだ鉄の斧が世界一に決まっている。それは、「お前は本当は、きこりなんてやめて、遊んで暮らしたいのだろう」と問われたのとほぼ同じだ。侮辱されたのだ。私なら一撃必殺の毒舌で、こういうくだらない試しをした相手をうんと後悔させてやるところである。ただし心の中で。
きこりは内面で何をどう考えていたかはわからないけれど、金や銀の斧を出されても自分のものだと嘘は言わず、自分の鉄の斧を出されたときに、これこそが自分の斧だと言う。ここの当たりの内面にはいろいろな解釈が成立するだろう。だけど、神様は「正直者」と褒めちゃう。嘘をついて神様を騙せば遊んで暮らせる、と内心迷ったに違いないが、「それに打ち勝って正直に答えた」、と決め付けてるの?ひょっとして。なんて失礼なの? これっていい話なの? 神様ってすげーやなやつ、って話じゃないの? そう感じる私がオカシイの?

それで、以前、ちょっと書いたことのあるテーマで、パロディ作品を作ってみた。


「湖に落とした子供の話」

○湖の畔
   子供が湖に落ちる。
   母親が湖畔で、取り乱しながら子供を探す。
母親「坊やぁー! 坊やぁー!」
   湖から、神様が子供を三人抱いて出てくる。
   神様、その中の一人を母親に差し出す。
神様「あなたが落としたのはこの子でしょう。頭脳明晰、将来は博士か大臣か。いずれにし ろあなたの老後は安泰です」
母親「違います。うちの子は、こんな小賢しい嫌味な顔した子じゃありません。すっごく可愛いんです」
   神様、別の子供を差し出す。
神様「では、この子でしょう。どうです、幼いながらもこの輝く美貌。芸能界にデビューすれば、スター間違いなし。あなたの老後は安泰です」
母親「違いますったら! うちの子は、こんなけばい顔した大人子供じゃありません! 世界一可愛いんですってば!」
神様「わかりました」
   神様、ひとりの間抜けな顔をしたはなたれ小僧を母親に差し出す。
母親「この子です! 世界一ラブリーなうちの子です!」
   母親、子供をしっかりと抱きしめる。
神様「あなたは正直な母親ですね。感心しました。では褒美と言っちゃなんですが、この頭脳明晰な子と、美貌の子も一緒に・・・・・・」
母親「けっこうです」
   母親、子供を抱いたまま、すたすたと去る。
   神様と、抱かれている二人の子供、きょとんとして母親の後姿を見つめる。
   二人の子供、悲しそうに泣き出す。
神様「おお、よしよし。泣くな泣くな」
   子供たち、泣き止まない。
神様「心配するな。次はもっとまともな母親を捕まえてやるから」
   子供たちの泣き声、ますます大きくなる。
   神様、一緒になってべそをかく。(終わり)

うーん、この手のパロディは出尽くしている気もする。私は、この母親のリアリティだけは理解できるけれど。書いてて思ったが、神様に冷静に愛されるより、愚かな母親に、手放しに、でも強烈に愛される方が、ずっとずっと価値があるなぁ。

少し前になるが、映画『ダーク・ウォーター』のパンフレットで、主演のジェニファー・コネリーが、「あなたが実生活でも母親であることで、演じるに当たり何か思うところはありましたか?」という主旨のインタビューをされていた。娘を守ろうとする迫真の演技。確かに、私もそれが一番聞きたかった。ジェニファー・コネリーは、自分の子供に対する気持ちが演技に出たと思う、と述べた上、続けて、自分の子供への想いをいくつか語った。子供が生まれて、他の子もみんな可愛く見えるようになった。だけど、やっぱり自分の子が世界一ビューティフルに見えるのだ、と。
これは、ずいぶん多くの人が証言する言葉だ。これが滑稽に思えて仕方がない、という人がどうやら多いらしい。「理屈に合わない」と。「嘘だろう」とか。「かっこつけてんだろう」とか。だが、そう言っている人が、自分の番が来て同じことを言い出すのが人の世というものである。無数の主観を寄せ集めたら、たぶん、世界はひどく矛盾に満ちたものになるだろう。善悪だってそうだ。

何だか、話が完全に道を反れてしまったので、この当たりで。