『花よりもなほ』ほっこり映画なんだな

子供たちがとても可愛かった。進坊、吉坊が可愛いのももちろんのこと、エキストラの子達も。「孫ちゃーん!」と言いながらかけていく時の声などは、本当に、大好きな孫ちゃんを見つけて、喜んで駆け寄っているんだということがわかった。ちょっと甘えて。孫ちゃんと一緒に「たくさんたくさん!」と言いながら飛び跳ねている子供たちも、心から楽しんでいる様子で可愛かった。
肥え桶でいたずらしていたり、川原で笹船を作って遊んでいたり、石蹴りをしていたり、走り回ってたり……人間、どうしても興味があるところに目が行ってしまうけれど、子供たちを目で追うのがこんなに楽しい映画は久々だ。まあ、『誰も知らない』で、子供たちがきっと良いだろうとは予測していたけど。

それから、子供たちは、宗左にはこんな風にはなつかないんだけど、代わりに、他の誰よりも宗左に自分を「理解して」もらったり、「認めて」もらったりしたい。ちょっといい子になってみたりする。これまた可愛い。子供たちのそばにいて、お父さんオーラ出しまくっている我アイドルが(以下、痛い賛美の言葉、千文字を自粛)。

可愛くないのが、武家のガキどもだな(笑)。太古の昔から、こういう嫌な子はいたような気がする。私の頃にももちろん佃煮にできるほどいた(笑)。こんな、親のステータスをひけらかして他の子いじめるような子は、私の子だったら根性叩き直してやるところだ。特に男の子は、大勢で一人をいじめるなんて見苦しいことをする子は、将来ろくな男にならないから家から締め出しだ。なあんて。大人の中で「気に入らない子をみんなでいじめてねぇ」なんて昔話をする人間がいないのは、それは「大人になってから恥ずかしくなる事柄」であることを示している。自分の子供にそんな思いをさせたくなかったら、何とか止めなくちゃ。武家の場合は、こうした「行動の美学」みたいなもので成り立っているような社会だったはずなのに、落語を見る限り、弱いものいじめ体質で嫌われていた武士は佃煮にしたいほどいたようだ。どこまでも理想と現実は違うってことなのかな。子供たちの可愛らしさ美しさがなくなってしまってかわいそうだ。

サムライ・スピリットが戦中で蘇ってしまった。その戦後から61年経った。また、嫌な形で蘇る気配がある。それは国際情勢が緊迫感を強めていることと深い関係がある。是枝監督は、ひょっとしてこれを憂えて、映像で伝えたいことがあるのかな、と思う。

ところで、ドラマや映画で「可愛い子供」を描く時に、勘違いした可愛さを子役に押し付けているものは多い。それだけ子供らしい可愛さというのは、表現するのが難しいのかも知れないし、大人が「要求」してしまう可愛さが、子供を捻じ曲げてしまうのかも知れない。ところが、子供を描くのが妙に巧みな演出家というのがいる。スピルバーグ監督とか。是枝監督のそれは、まるで魔法じみている。

また今週末行ってくる。

つづく。