『お姫様物語』

ラジオ番組『GROWING REED』では、最近、漫画家の紫門ふみさんがゲスト出演された。『あすなろ白書』、『東京ラブストーリー』、『Age35』など、等身大ラブストーリーが次々とドラマ化されている。御題も『男は恋愛によってどう変わりますか?』である。番組の途中で、恋愛体質の女性について、白馬の王子様を待つお姫様願望のある女性と説明が出てきたので、これにひっかけて、『お姫様物語』をさらっと総括してしまおうと思う。

白馬の王子様願望、というのは、1981年、コレット・ダウリングの『シンデレラ・コンプレックス』が出版された時から一般的になった概念である。学歴もキャリアも立派な女性たちの中にある、根強い依存願望のことである。日本の昔話と比較して、西洋のメルヘンには、不遇の女性が美しさで幸福を掴み取るタイプのサクセスストーリーが格段に多い気がする。

小学生の頃、隠れ童話フリークだった。もともと学級文庫を端から端まで読む癖のある子供だったのだが、ある時、クラスに童話全集が置かれて、それを端から読み出したのがきっかけだ。高学年くらいになると、難しい本を読まないといけない、みたいな妙な強迫観念が生まれるものだ。自分が決めたルール通りに学級文庫を読破していることが、その時ばかりは妙に後ろめたかった。結果、童話、特にグリムなどのおとぎ話を読むのは、人目をしのぶ『隠れ趣味』みたいな位置づけになっていった。多くの人が経験することだろうが、隠れてすることは暗く楽しい。そんな中、読む数が多くなるにつれて、パターン認識ができあがっていった。最初は面白く感じられた物語の数々も、パターンが見えてくるとマンネリ化してつまらなくなっていく。読んでいる途中でつまらない結末が予測できて、それが大当たりだった時の失望は、本好きがぶち当たる障壁のひとつである。ましてや、民間伝承による童話は、決してパターンからはずれないという性質がある。ある日、識者の「本は、『自分にとって』面白くないと感じたら、途中で読むのをやめるべきた」という言葉に出会い、ようやく呪縛から解放された。かくして、私の童話フリークはミステリーへの移行をもって、めでたく卒業となったのだった。

そんな事情から、かなり長い間、自分の童話体験のことは「子供の無駄な時間潰し」と捉えられていた。人にはもちろん話したこともなかった。それは、後々の特撮やアニメのヒーロー好きと同様、長らくこころの秘密だったのである。そして、それはたぶん一生そのままのはずだった。

民間伝承の物語を心理学の下敷きに応用する、という切り口の書物に、一番最初に出会ったのはいつだったろう。荒唐無稽な物語であっても、作者の世界観を常に反映しているものであり、それは作者の体験に基づいているということは、かなり早くから意識していた。だけど、メルヘンは多くの人間の脳を通過した物語である。一人の人間の世界観は閉じた系だろうけど、多くの人のそれはどういう性質を持っているのだろう。
高校生の頃、心理学の分野で、ギリシャ神話から『エディプス・コンプレックス』なる言葉が切り出されたのが、革命の第一歩だったことを知った。その発明以降、文学をはじめとする表現に劇的な変化が起こったことも。私の中でも、童話のパターン認識とその視点が融合することで、革命的な変化があった気がする。

さて、グリムなどのおとぎ話の主人公は、基本的に、弱くてピュアで美しい男女である。薄幸で、運命に翻弄され、健気である。彼らを幸福へと導いてくれるのは、外から彼らに無償に注がれる『愛情』だ。その愛情を引き出したのは、主人公たちの美しさと、内面の純粋さ、である。そんなおとぎ話の中でも最も普遍性が高いのが、いわゆる『シンデレラ物』。お姫様が、援助者の力を借りつつ、迫害するものから逃れたり対抗したりして、最後に救済者である王子様と結ばれて幸せに暮らしましたとさ、というパターンのお話である。お姫様のキャラクターやクライマックスはどれも似たり寄ったりなのに、迫害者のやり口のバラエティに富んでいること!  悪役の悪に美学すら感じてしまうほどに。なるほど、悪役を主人公にした『刻命館』なるゲームがあったわけだ。悪役とは、非の打ち所のない人にいじわるをしたい願望を、かなえてくれる存在なのだろうか。片や主人公は主体的でも能動的でもない。つまり人間らしくない。豪傑が主人公の神話や、探偵たちが知力・体力の限りを尽くして努力するミステリーとは、ベースの人間観が正反対であると言えよう。私が童話の主人公たちに感情移入できないのは無理もない。

ところで、『白雪姫』について、ずいぶん前にこんな考察を書いたことがある。『魔法の鏡』というのは、ただの鏡で、それが語る『誰が一番美しいか』の答えは、つまりは、質問者の中に既にある答えに過ぎない、と。美しさ、特に容姿の美しさというのは、普遍性はあるものの、ものさしにかけると、かなり主観に左右される感覚だと思うので。また、一人の人間を「美しい」と感じることと、複数の人間の中の一人を「この人が一番美しい」と感じることは、まったく別の感覚だと私は思う。特に、その複数人の中の一人が自分自身だったりした場合は。そう言えば、自分の顔って普段は見えないものだ。女王は、結局、鏡で自分の顔をチェックした時点で、無意識レベルで『娘の白雪姫は、自分より美しい』と悟ったんじゃないかと思ったのだ。鏡というものが、誰にでも手に入るようなものではない贅沢品だった頃、自分の容姿に対してこういう執着の仕方をする女性、という存在に、今よりはるかにリアリティがあったのではないかと思うのだがどうだろう。

ところで、それを書いてしばらくして、私が行ったような童話の考察をいくつもまとめた本が出版されているのを見つけて、読んでみた。外国の出版物で類似したものをそれ以前に読んだことがあったが、「鏡の精の声は、父王の声」というところで共通している。私はこれが気にいらない。この考察をした人にとっては、それが自然な解釈だったかも知れないが、一般化するのが危険な発想だと思う。私は、仮にこの世から男性が一人もいなくなって女性だけになっても、女性の自尊心は多く容貌の美しさによってたつと思う。もちろん、すべての女性がそうだとは思わないし、男性の目を意識した上での容貌コンプレックスがないとも言わない。だけど、自分が美しいか否か、ということは、異性をひきつけるためだけではなく、もっと心の深いレベルとの関係だと思うので、簡単に「父王の声」なんて浅い解釈で片付けて欲しくないのである。男性と女性では、美醜の感覚もかなり違う。

人間の容姿と、その人生の幸福との関係……これに対して、童話の語り部たちは、面白さ楽しさを感じて、物語を口伝していく。多くの場合、それは子を持った女性たちである。この当たりに何かヒントはないだろうか……。

……さらっと総括するつもりが、どうやらそこなし沼に足を踏みいれた模様。というわけで、このテーマはつづく。