批判された時のくすり

2つの類似した事象に対して、それぞれ矛盾する異なる規範を用いることを「ダブルスタンダード」と言う。
だけど、2つの真逆の事象に対して、それぞれ矛盾する異なる規範を用いて、一律に否定的な評価を下すことを何と呼ぶのだろう。
もう十年以上、それを表現する言葉を捜しているのだけど、まだ見つからない。
いや、理不尽で嫌なことがあったときに、心を軽くする方法として、まだ幼かった娘から伝授されたテクニックなので、それに名前があったらぜひ知りたいと思ったのだ。
それはこういう事件。

娘が小学校低学年の頃、母親の私が娘を虐待している、という噂を立てられた。
出所は、隣家の主婦だったらしいが、どうもわからない。
隣の家からは、年がら年中、その人の怒鳴り声と、子供たちが泣き叫ぶ声が聞こえてきて、
子供の泣き声が苦手な私は、そのたびに「もうこんなところ、引っ越しましょうよ!」と、
無理なのがわかっているのに夫に懇願したものだ。
それがなぜ? それはともかく、虐待の噂には、そんな事実はない自覚はあっても、かなり凹んだ。
道ですれ違う近所の人に挨拶をしても、無視されたり、刺すような目つきで睨まれたりして、
かなりうっとうしかった。

その場所をようやく引っ越した時に、娘とその噂の話をしていて、
「やっぱりあんたが良い子過ぎるのは、他の人にしてみたら不憫に見えて、それで虐待していると誤解されちゃうのかもね」と言ってみた。
そこにあるのはただの誤解であって、悪意じゃないんだと、その時は思いたかったんである。
すると娘はクールに言ったもんだった。
「もし私が悪い子だったら、やっぱり虐待されてるせいだって言われたよ。『ほうら、複雑な家庭はやっぱりね』って」
思わず頭の中でシミュレーション。ほんとうだ、きっとその通りだ。
「人のうちの事を悪く言いたい人たちは、自分の考えに筋が通ってるかどうかなんて考えないんだから気にしないほうがいいよ」と娘。
思わず私は感心して、「本当にそうだね!……って言うか、あんたいくつ?」「やだ10歳よぉ」
なんで、不惑の私より、十年しか生きていない者の方が真理を掴んでいるのだろう?

それがあってから、対人関係で嫌なことがあった時、「もし私が逆のことをしていた時には、起こらなかっただろうか」と自分に問うようになった。
例えば、人に気を遣った結果、「いい人ぶって嫌らしい」と陰で言われたとしよう。
もし気を遣わないでいたら、何も言われなかったか?
否、「他人に気を遣わない自己中」と陰口を言われるに違いない。
考えるまでもなく直観的に答えが出てくる。
なんだ、じゃあ別に何を言われても、どっちでもいいや。私は私の好きにする。
私は仕事ではチームを勝たせたい派だから、そのためには必要とあらば人に気を遣うし、
必要なければわざわざ気を遣ったりしない。これで貫こうっと……万事はこれで片付けられる。
もちろん、自分のやったことがまずくて嫌なことになったと結論が出たら、素直に修正だ。
すると、ああら不思議、嫌なことで傷ついて引きずることが激減した。
さらに不思議なことに、嫌な目にあうこと自体少なくなった。
理由はよくわからない。

というわけで、これはお勧めだ。
それにしても、この「どっちに転んでも批判」は名前を何と言うのだろう。
そして、このテクニック、名前は何と言うのだろう。あったら知りたい。