映画「線は、僕を描く」観ました

金曜日の夜、公開初日の「線は、僕を描く」を観てきました。その前に、番宣をいくつか録画して拝見しました。中でも、主人公の霜介くんを見出して弟子にする湖山先生を演じられた三浦友和さんが、「おしゃれクリップ」で語られていたのがとても印象的でした。横浜流星さんが「流浪の月」で悪役を引き受けたことを、「その歳の自分だったら断っていた」と、その勇気を褒めてらっしゃったところが特に。

それでふと思い出したのですが、三浦さんご自身は、32歳の時に、映画「天国の駅」で初めての汚れ役をされたのでしたね。それまでの爽やかな好青年役のイメージとは180度違う役でした。雪のように美しい大女優の吉永小百合さんと同じフレームに入って霞まないでいられる若手は、あの頃そんなにたくさんいなかったと思います。納得の配役ではありましたが、その悪役ぶりに、鑑賞していて震えが来ましたっけ。同じ汚れ役でも「流浪の月」の亮くんのような、辛い過去の為という情状酌量の余地もない、我欲のために真面目で優しい女性を2人も食い物にする役ですから、きっと消耗されたろう、とお察しします。それでも、あの役でその後の流れがぐっと変わったようにお見受けしました。賭けに勝たれて、今に繋がっていらっしゃると思うと、横浜さんを評価された言葉にも独特の重みを感じます。私が言える筋ではありませんが、ありがたいことだと思います。

以下感想には、ネタバレを含みます。

その上で、「#せんぼく」での湖山先生と霜介の関係を見ると、同じく映画という芸術の分野での年長者と若者の出会いという点で、重なるものを感じます。絵画展での霜介のたたずまいを見て、「弟子にならないか」と声をかけた湖山先生には、霜介の内側にある喪失を見抜ける、経験値のようなものがあったのかな、と思うのです。

そもそも絵を描く人は、なぜ絵を描くのでしょう。学校などのコミュニティで、自分は絵がとても得意で好きだと気がついて、描き続けていたらますます上達し、やがてその道に進むことを決意した、という経緯が多いのでは、と推測します。霜介は、たまたま初めて見る水墨画の一枚に見入っただけでした。しかも大学生。習い事の世界で上に進むには微妙な年齢かと思います。それでもなお、湖山先生が確信を持って誘う理由は?

映画を見て初めて知ったことですが、水墨画は、書道、華道、茶道、武道等の「○道」と名のつくものと同様、初学者が一歩を踏み出す道筋がしっかりと確立しているのですね。「春蘭」の絵には、水墨画を志す者がマスターすべきすべての技術が詰まっている、とのことでした。それを、ひたすら描く霜介。その描いている顔も、時の流れに沿って段々と変わっていきます。観客としても、それを見守る気持ちになっていきます。

良きライバルでもある、湖山先生の孫の千瑛さんが、とてもいい味していました。愛想はふりまかない。でも、心の冷たい利己的な人ではない。絵にはひたすら真っ直ぐに向き合う。まるで平均台の上で平地上のように優雅に演技するかのような調和感覚です。美しい。

その千瑛さんですら、湖山先生から絵を認められないことに苦しみます。霜介も同様、答えを自分で見つけなきゃいけないのは、辛いこと、なのでしょう。

余談ですが、横浜さんと清原果耶さんて、遠くを見ている時の横顔が兄妹のようによく似ていますね。真っ直ぐに役に向き合うメンタルが似ているのと、関係あるかも知れません。

すべての芸術に言えることかも知れませんが、こと絵に関しては、「上手い絵」と「良い絵」は別です。少しは被っているかもですが。薄々感じていたそれをはっきり確信したのは映画「雨鱒の川」を見てからでした。具象と抽象の境界線にあるような、物事の本質を紙に焼きつけるような、すごい絵を描く少年のお話です。その絵の前で、見る者は心を揺さぶられずにいられません。上手い絵といえば、写真の様な絵を連想しますが、それが良いのなら写真そのものでいいじゃないか、と言った人もいました。確かにその通りです。わざわざ絵にする理由は、もっと別のところにあるのは、さすがにわかります。

水墨画は、紙と墨と水だけで描く、そのシンプルさゆえに、その描くことの本質がより浮き彫りになるのでしょうか。横浜さんの出演作のほとんどを見た身としては、その類まれな人柄について信頼感を持って映画を見たせいか、絵にも同様の信頼感をもって見守っていました。千瑛さんにも。ハッピーエンドの予感にノイズが入らないところが、本当に良かったです。

 

さて、マイルールに則り、原作を読んで、週末にまた見てきます。感想の続きもまたその時に。

では