「かもめ」を見て、つれづれに

藤原竜也さんのファンとのツアー&握手会も無事終了したそうな。ファンの方たちがいろいろ感想を書いているのを見ていると、藤原さんて、本当にいい人だとわかる。ファンは対象に似る、というけれど、藤原さんとファンの関係も、お互いを大切にするとてもいいものだと思う。ちょっと羨ましいな。

さて、休みである。DVDの『かもめ』、アマゾンから届いたのだけど、まだ何となく感想が書けない。チェーホフの作品って、中の登場人物に対する評価が、時の流れによって自分の中で劇的に変化していってしまう。つまりは、今自分がどう生きているかに深い関わりがある。そういう意味で、読者・観客になるのが怖い物語でもある。物語の感想を書くと、自己の精神史を問う羽目になるようで。映画より舞台がそれがきついような気がする。その中でもチェーホフは特にきつい、と。

「かもめ」を簡単に説明すると、表現が商業的に成功することと、表現の価値の葛藤の話というところだろうか。そんな単純な話でもないのかな。そういう議論は、結局答えが出ないまま、これからも続いていくのだろう。好きな仕事と儲かる仕事との折り合いの話のように。そういう問題に囚われている老若男女四人の物語。自分の頭の中に飛来するものを何とか表現しようとするトレーブレフ。だけど、それらはなかなか理解されない。

だけど、ぱっと見、わけがわからないけれど、何だか面白くてたまらない、という話はこの世にあまた存在する。フィーリングが合う、というやつだ。トレーブレフの戯曲を、医師が評価するけれど、科学と詩の両方を愛する人には、トレーブレフの戯曲はフィーリングが合うのではないかと思う。トレーブレフの身になって、その医師の感想に何とかすがりたい自分がいる。
また、世の中には、大衆受けしているけれど、「ほらほら、こういうのがスキなんだろう?」という作り手の上から目線や冷笑が見えるような気がして、白ける、というものもある。『赤い疑惑』とか(笑)。『幸子という名で超不幸』というタイトルに変更すれば?と毒づいてみたりする。私が蜷川さんの立場だったら藤原さんがこれに出たら、怒りの電話を入れずにはいられないだろう。流行作家トリゴーリンには、そうした作り手の匂いがする。彼らもまた、何か憂いを感じてはいる。だけど、そこから抜け出す気持ちはないのだろう。

つまりは、表現者にとって、表現が受け手にどう受け止められるか、何一つ約束されたものはないんだという話。受け入れられた過去があったとしても、それが続くという保証もなにひとつない。なのに、なぜそんな苦しいことをずっと続けるのだろう。ましてや新しいこと!冒険!リスク! また、もし目の前に確実に受け入れられるものがあったとして、実はそれは海水を飲むようなもので、飲めば飲むほどに喉が渇くような、そんな泥沼にはまる危険な罠だったとしたら。……何のために生きるのかだって答えが出ないのに、何のために表現するかなんて。

最近、藤原さんのインタビューをいくつも読んでいたせいか、どうしてもこういう方向に考えが進んでしまう。このテーマで書くとどんどん自分の中に沈んでいく。私の考えてたり感じたりしていることを、物語形式なら伝えられるかもと考えて、ずっと勉強も続けてきているんだけど、こんな様子では甘いかも知れない。

もうちょっとちゃんと見てから書こうと思う。

ところで話は変わる。
ずいぶん前から、藤原さんて「こんな顔した人は二人といないだろう」と思うのと同時に「ずっと昔にいたかも知れない美貌の人」と感じていた。矛盾はしていないのだけど、妙な感覚ではある。こうした感覚にはきっと何か理由があるはずだ。そう思っていたら、昨日の朝、その謎が解けた。駅に興福寺の阿修羅像のポスターが貼ってあるのを見た瞬間、「そうか、この像に似てるんだ!」と気がついた。特に、16~17歳頃の藤原さんによく似ている。そう思ってよく見ると、戦いの神の像は、大人の男性になる前の、ほっそりとした少年の体つきだ。どうして今まで気がつかなかったんだろう。

帰宅して、娘に言ったら、「ええ?似てるかな」と疑わしそうに言うので、ネットで阿修羅像の画像を呼び出し、藤原さんの写真集「1/f YURAGI」の中の写真と対比させてやった。「おーっ!」と声をあげる娘。そう。顔のパーツや配置が酷似しているのに、イメージとして似ている感じがしないこともある。もっと言ってしまうと、藤原さんの顔は、仏像一般ととても共通点がある。まず、角張らず立体的な顔立ち。そして、美しい横顔を形成している通った鼻筋と絶妙な頬のライン。すっきりと切れ上がった目。小さめで引き締まった口元。なだらかなカーブを描く額。ある意味、人間のひとつの理想を具現化した顔立ちではある。
そんなことを考えていたら、今までの役柄も、何となく納得がいくような気がしてきた。あんまり普通の人の役はやらせたくないのだな、うん。

もうひとつ気がついたのだけど、その人に最も相性のいい道具というものはそれぞれあるらしい。たとえば車マニアの人が車に乗った瞬間、その人自身が車のパーツのようにしっくり納まった、という感じがする。ちなみに、私にはパソコンがそれのようだ。
藤原さんにはどうやら武器が最も相性が良い。舞台・映画・ドラマで、藤原さんほど武器を手にしたシーンが多く、またそれが美しい人はひょっとしていないのではなかろうか。「新選組!」や「戦国自衛隊」で日本刀を構えたときの美しさはもとより、ナイフ・サーベル・短剣・拳銃・猟銃・ショットガン・ノート(笑)……どれもこれも、まるで体の一部のようだ。藤原さん自身にはまるで暴力のにおいがしないのに、不思議なことだと思っていた。だけど、仏様の中には、武器を手にしたものが少なからずある。何か繋がるところがあるのかも知れない。

こういう発見が、楽しくてやめられない。