ドラマ「新聞記者」舞台挨拶

Netflixに来年1月から配信される「新聞記者」の舞台挨拶を拝見しました。新聞記者役の米倉涼子さんと、官僚役の綾野剛さん、そして藤井道人監督が並んで、それぞれドラマについて語られていました。

主演の米倉さんは、外科医や弁護士などの、強い意志を持った「できる女性」の役がはまり役です。当然、このドラマでもそうした強い新聞記者の役割を期待されての起用だと、視聴者目線で思っていました。ところが、現場で静かな演技を要求されて、それまで作ってきたプランが消えてしまったとか。監督がこの記者で表現したいのは、高揚したパワーではないのですね。

綾野剛さんは、「きつい」事を真っ先に挙げられた後すぐに「嘘です」と言われていました。それは、「当たらずと言えども遠からず」の意ですよね。良心を持った官僚が、次第に病んでいく壮絶さを、予告でも感じ取りました。病むまで追い込まれる役を演じるとは、どんな感じなのでしょう。

監督が、映画版にないキャストとして、政治にも新聞にも関心のない普通の大学生を加えたと話されていました。この新キャストの立ち位置が、より明確になりました。その役を横浜流星さんが演じられています。監督の評価では「ベストアクト」とのこと。面倒臭そうに話しているシーンと、就活面接のシーンとのギャップが、一瞬なのに多くを語っていて、過大評価ではないと分かります。

横浜さんがさらに化けて、全国区ですごい俳優と認識される日が待ち遠しくてなりません。時間の問題ではありますが。

ところで、以前、映画「バイス」を見た時、アメリカでは存命の元政府高官を実名で批判する映画を作れる事に衝撃をおぼえました。この衝撃は、日本では政府批判の映画は作れないだろう、なる思い込みから発しています。それに後から気づいて、日本はみすぼらしくて哀れだと感じました。

日本では、マスコミは政府に忖度する存在だと、何となく国民がそう思っています。行政も司法も同じく政府の顔色を読んでいるのだから、民間の新聞社も当然そうだろうと。

推しのヒットドラマ&映画「SP」も陰謀渦巻く政府への抵抗をテーマにしていました。それでも、現実の要人や事件を連想させるものが登場せず、主人公の超人的活躍が際立って、批判の部分は薄まっています。日本では、これが表現の限界なんだと思いました。

そこへ映画「新聞記者」です。「バイス」以上の衝撃が走りました。これ、よく作れましたね、命を狙われませんでしたか?と心配になりました。

映画を観た後、伊藤詩織さんや加計学圏問題についての報道で知られる、新聞記者の望月衣塑子さんの著書が原案だと知りました。Wikipediaで調べたら、執念すら感じる記者活動をされてきたことを知りました。伊藤詩織さんの事件については、娘が同年代なので強い危機感をおぼえて、伊藤さんの著書を読んでみました。読後、日本という国に絶望しました。もし、望月さんがいない、藤井監督が映画制作を決意されない世界だったら、この絶望はさらに深いものだったでしょう。

望月さんが報道された数々の問題も、すべて解決してはいないので、映画やドラマでフィクションの「スカッとする解決」を描くのは違うと思います。絶望を描いた上で、それでも生きる、とするのが着地点となるのでしょうか。表現へのモヤモヤをストレスなく消化する者(例えば私)は、それを支持するでしょう。

来年の配信が早くも楽しみです。

では