エッセイ>自分と人とは違うこと

先日書いた、子供の頃好きだった鉄棒少女もそうだし、中学の陸上部のエースもそうなんですが、ともかく自分にできない事を素晴らしくできる人に心惹かれる傾向にあります。「それってどんな感じなんだろう」ってのが口癖でした。今もかな? 他の人はどうなんでしょうか。

生まれつき人から見られるのが極端に苦手なので、仕事として被写体をしている人も同様に強く惹かれます。「どんなんだろう」と。社交的な人柄を生かしたタレントさんも超絶すごい、と思うのですが、ひとたび役になり切ると生き生きと演じるのにフリートークがダメ、という人が多い俳優さんには特別に興味があります。

頭を使ってする事も、ミステリー系の頭脳派キャラクターみたいなタイプの人に憧れたりもします。

ところが、多くの場合本人には「それができる」のが自然なことで、私には苦痛な事をむしろ「好きだからやってる」と理解していませんでした。想像を絶するのだから仕方ありません。

それがコペルニクス的転換した日のことを今でもよく覚えています。私の出身高校は陸上の強豪校だったので、部員たちは傍目にも半端でない練習量を毎日こなしていました。ある日、年下の陸上部員の子と話をする機会があって、あなたたちすごいよ、という意味で「毎日よく走るね」と語りかけました。そしたら、思春期の男の子なので、女子に「よくそんな事やってられるわね、バカなの?」と言われたと誤解したらしく、「走るの、楽しいよなあ」と口を尖らせて周囲に同意を求めました。

その瞬間、ヘレン•ケラーが井戸の水を手にかけられて「物にはすべて名前がある!」なる悟りに至り「ウォーター」と叫んだように、私の中の知恵の輪がピキンと外れました。私が死ぬほど辛くて、いつも我慢してやっている事を、楽しいと思って望んでやっている人がいるんだ!すると、あれも、これも、そういう事だったのか! 後は脳が勝手に多次元オセロの駒をひっくり返しまくりました。

いやいや待てよ。じゃあ、私が好きでやっている事も同じ構図でひどい誤解されている可能性あるのかな。•••本が好き。それを言うと時々相手が一瞬汚い物を見る目つきをするのがそれだ、と気がつきました。大学などは理系だったから、教室で本を読んでいると「何か課題でも出てるの?」と不安そうに聞いてくる人もいて、「別に。好きで面白いから読んでるだけ」と言うと、すごい顔されましたっけ。あれですか。あれですね。

それと、感想文を書け、言われると毎回ネチネチ限度枚数使って書いてくるのも、まさかと思うけど辛いのを我慢して頑張って書いていたなんて思われてたの? それはまずい。まあ、度を越していたのは認めます。半分は自業自得です。

この相互の理解の困難さは、かなり根深いものですが、幸いネット時代に突入して、異なる価値観に気軽に触れられるようになって、だいぶ事情が変わってきました。それぞれは、ただあるようにあるだけ。

でも、こんな分かりやすい法則に何故ハイティーンになるまで気が付かなかったのやら。薄々そんな気がしていたけど、私には何か重大なものが欠けているようです。正直生きているのがしんどいです。「人が自分と同じだと思うな」と幾度となく言われてきました。すべての人がそう思わない限り、マイノリティほど不利になる道徳律なので、スッキリしません。

ともあれ、まだまだ出会ったことのない価値観がこの世に存在しているはずです。世界は価値観と認識の海です。「Growing Reed」を聴いていると、それを実感します。

それぞれの「好き」と「得意」を大切に。それが本人には当たり前のことでも、それが当たり前でない者は必ず存在します。

 

今日はここまで。

では