エッセイ>鉄棒少女の思い出

ドラマ「初めて恋をした日に読む話」の中には、「モテの条件」について、かなり考察がされていますね。「男子東大生は婚活楽勝」とかを筆頭に。恋愛絡みは当事者ではなくなったので、文化人類学的興味で、ふむふむ、と聞いています。

中学生の男子なんて足が速ければモテる、という台詞がありました。言われてみれば本当にそうでした。陸上部のエースを好きだった自分を懐かしく思い出しました。

その言葉通り、男性が好むのが「可愛い女性」で変化がないのに対して、女性の男性への好みは、年齢で大きく変化していくことで知られています。理由は色々あるんでしょうけど、既婚と未婚で寿命が平均15歳も違う男性にとっては、厄介なことだと同情します。

最初から、女性の市場価値としては複雑な東大生を目指して挫折した順子さんは、こうした恋愛システムを一般論としては展開しつつも、自分の感情として持ってないところが特異です。いい男3人に真剣に恋されるのも一周して説得力あります。高校生のユリユリに恋されるのは女の勲章と言いますが、超ハイスペックの従兄弟に一途に思われるのも、自分に影響を受けて教師になった同窓生に惚れ直されるのも、充分過ぎるほど勲章だと思います。

•••そこまで来て急に思ったんですが、私は今でも運動できてキラキラしてる人は好きですよ?性別問わず。ハートが中学生? はじこいの男性3人は、頭はそれぞれタイプが違うけど賢いし、タイプの異なる美形です。でも、それぞれの「好きな世界」、特に運動については描写がないのが物足りなく思いました。テーマと関係ないから無くても問題ありませんが。

 

ここから自分語り。

表現者で好きな人をランキングしても、まず全員、身体がよく動く人になります。いつからだったっけ、と考えたら、ひとりの女の子のことをふいに思い出しました。

10歳の頃、同級生の鉄棒少女が好きでした。新学年が始まったばかりの頃、新しい教室に向かっていたら、中庭の高鉄棒にひとりの女の子が腰を掛けて、足をぶらぶらさせていました。あれ?あんな高い所にどうやって座ったの?と思ったら、いきなりその子が鉄棒に足を引っ掛けて、ぐるぐる後転を始めました。私の目には神業に見えるその技を終えると、再び鉄棒に腰をかけた状態に戻り、鉄棒のてっぺんで笑っていました。小麦色の顔によく似合うひまわりみたいな素敵な笑顔にやられて、たちまちこの子が大好きになりました。

でも、自分から話しかけたことは一度もありません。いえ、気に入った人に自分から話しかけたこと自体、過去に一度もないし、おそらく死ぬまでないでしょう。何とも思ってない相手にはできるのに不思議ではあります。遠くから見かけて、ああ今日もあの子はキラキラしてる、よしよし、と満足して読みかけの本の世界に戻るのが日課でした。

経験で言うと、飛び抜けて美しい人は他人のルックスを馬鹿にしないものですが、飛び抜けて運動ができる人もできない子を馬鹿にしませんね。この子もそうでした。そう言うところも知るにつれ、好きの度合いも高まっていきました。

しばらくすると、クラス委員の選挙が行われました。学校生活初の投票だったのですが、私は迷わず鉄棒少女に入れました。他に選択肢ないでしょ。だってキラキラの鉄棒少女ですよ? ところが、その子に投じられたのは1票でした。えっ、私だけ?そして最大得票数を得て委員になったのは私でした。クラスであからさまに浮いている私に投じた人たちの心が不気味に感じられました。自分はここでは良くも悪くも珍獣なんだと悟った最初の体験です。

それよりも、1票だけなんて自分で入れたのがバレバレだと言うやつがいたのが(今でも)腹立たしく、大好きな子を浅慮で傷つけた良心の呵責にも(今でも)苦しむ黒歴史の1ページとなりました。「先生が選んでもらいたがっているから皆が入れる人」を正確に見抜いて、自分もそれに合わせる、という10歳の子が既に持っている社会性を、私は持っていなかった(もしかして今でも)のだから、自業自得でしょう。

今でもその子のことはきれいな気持ちで思い出せるし、その子の姓に「橋」の字があるせいで、初対面でも橋の字の含まれる人に好印象が上乗せされる自分に気がつきました。書いて客観的に眺めると、だいぶ危ない人ですね自分。まあいいです、その件では人に迷惑かけてないはずだから。

娘は、女の子の割に言葉が遅く、反対に運動能力の優れた子供でした。体育で「好きな飛び方でとび箱を飛んで」と言われて、じゃあ、とハンドスプリングしてどよめかれたとか、一輪車やローラーブレードの技を習得しまくったとか、そんなエピソードがいくつもあります。私の正反対。生物学的父親の遺伝子のおかげです。この子がその才能を発揮して成長していくことがたまらなく幸せでした。そして今、その「好きで、得意で、人に感謝され、生活できる位にお金が稼げる」という完璧な仕事に就いたので、すべてうまくいったんだな、と肩の荷をおろしたような気持ちでいます。

私がずっと前から運動できる人が大好きだったのは、この子の母親になるためだったのかなあ、なんて詩的(つまり虚構)なことを思う、春の宵です。

 

今日はここまで。

では