エッセイ>天使について

まだ、我がアイドルが10代だった頃でしょうか。ある戦略をもって彼を「天使」に例えたことがあります。「ほーら、痛いジャニオタが、痛いことを言ってる」という反応がネットのどこかで表れることを期待してのことです。今風のネット用語で言うところの「釣り」ですね。私はパソコン通信時代の黎明期からのネットワーカーなので、この辺りの「キーワードに対する過剰反応」への予測は割と正確にできる方です。そして予測が的中したのを見て、次の段階に踏み出したのです。目的は、彼が表現者として世界に寄与できる稀有な人間だと訴えることでした。

さて、私と「天使」との出会いは、絵本から始まります。それは家にあった「ナイチンゲール」の伝記絵本でした。犬を親身に看病する心清らかで優しい少女は、クリミヤ戦争の傷病兵を看病する看護婦になり、天使と呼ばれました、というお話です。看護学校を作った等の業績は最後の1ページのみ。子供心に、女の子は天使になって自己犠牲に務めなくてはならないと迫られている嫌な感じがしました。

中学生の時にナイチンゲールの日記や手紙、論文などを解説した研究本に出会いました。その本によって、絵本の最後のページ、あれこそがナイチンゲールの人生の本番とでもいうべきもので、それまでは助走に過ぎないことを知りました。その業績について興味のある方にはWikipediaなどを読んでいただければ良いかと思います。でも、これほどの偉大な人がなぜ日本では「献身の天使」で固定しているのだろう、という疑問が浮かびました。絵本でのイメージとは違って、ナイチンゲールは「足るを知らず、怒れる魔女」とも呼ばれていたとか。戦地でスタッフに反感を持たれて兵糧攻めにあったことも、手紙に書いてありました。

ナイチンゲール自身は天使についてこう語っています。「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」。これにカルチャーショックを受けました。キリスト教圏の人と、そうでない者との隔たりは、なんて大きいのだろう、とも。

そこで考えました。天使とは、文字通り天の使いなのだから、人間より上位の存在のはずです。だけど、日本では天使と呼んだ相手を見下し、自分の利得の為に利用して良い存在だとするニュアンスがあります。対して、聖書では、天使に「これをやれ」と命じられたら、それがどれほど困難で、大事な物を失ったり命が危険にさらされるようなことでも、やらなくてはならないのですね。神からの伝言だから。その厳しさを理解した日から、「天使」という言葉を使う時には覚悟がいるのだと思いながら生きています。

娘を身篭ってまだ気がつかなかった時、白い天使に受胎告知される夢を見た、と前に書きました。それまでの思考の積み重ねのせいでしょうか。夢の通り妊娠していると分かった時、これは覚悟がいることなんだな、と気が引き締まりました。問題を抱えた子が生まれた時の苦労は分かりやすいのですが、極めて優れた子が生まれた時の苦労は案外理解されにくいかも知れません。モーツァルトピカソの家族は、神童に人生を吸い取られてしまいました。もし、天使の夢がそんな困難を示唆するものだったら、覚悟と勇気を持ってその役割を全うしようと心に決めました。苦労どころか、親に幸せをくれるいい子が生まれて来た、というのが落ちですが。

我がアイドルと初めて出会った時、何かこう聖性というか特別な感じがして、同時に懐かしい感じがしました。その時、生活が重過ぎてもう何も考えない感じない、そんな風に暮らしていたのですが、なんだか気持ちがちょっと明るくなったのですね。それからドラマを「うっわ、かわいい」なんて楽しんで見てたのですが、ある歌番組でソロで歌ってるのを見た時、突然胸騒ぎがして。その昔、山口百恵さんが歌の音程をふいに外して涙をこぼし(たように見え)たのがフラッシュバックしました。何か苦しんでるのかなあ、と。

テレビの中の人には何もしてあげられない、と愚痴を言ったら、当時の夫に「応援ホームページを書いたら」とアドバイスされて、恐る恐る立ち上げて。そうしたら、言葉が天から降って来て、溢れて。ますます世界が明るくなりました。ありがたい。でも、同時にもっとちゃんと生きよう、とも思ったのです。自分よりいい加減で怠惰な人に応援されるなんて、私だったら嫌ですから。あくまで、私だったら、です。人間にやるべき事を示す存在が天使なら、まさにあの時の我がアイドルはそうだった、ということですね。

人生の中でこんな風に力づけてくれる出会いというのはたくさんは無いので、ひとつひとつ大切にしたいと思う次第です。

 

まとまってないけど、今日はここまで。

では。