歴史>阿吽の像について

歴史関係のマニアックな話の続きです。

高校生時代、武道や茶道をやっていたこともあって、「和」にはまって仏像の大きなポスターを部屋の壁に貼っていました。
家に遊びに来た級友たちは、女子ながら進学校で理系大学を目指している、当時としては変わり者揃いとあって、「これは男にもてないわー」としきりに感心していました。

ちなみにこれは褒め言葉です。
その頃、機能と美は相いれないものと単純に思い込み、美の為だけに創造するということに憧れを抱いていて、仏像はその象徴のようなものだったのです。

今で言うところの中二病ですね。
建築学科のある大学に進んだ時も、建築史に出てくる住居や城郭には目もくれませんでした。
ところが、どの授業だったか「美は機能である」という言葉にぶち当たって世界が一変しました。

人間が、何かに「美しい」「心地よい」「美味しい」などの快楽をおぼえるのは、個体や種の存続に深い関りがある事物を「頭で考えることなく」選択するように、長い進化の過程で作り上げられた仕組みなんだと。

「考えるな、感じろ」ですね。

そう言われて世界を改めて見まわしてみた時、宗教建築が実現している美も、人間という複雑系をひとつにまとめ上げる「機能」なのだと合点がいったし、ある種の「ダサさ」しか感じていなかった古民家や城郭の持つ美しさもわかるようになったのです。

最近は、我がアイドルの影響で城巡りをすることで、そうやって頭で理解したことがひとつひとつ腑に落ちていくので、とても幸せです。

宗教建築の「機能」について、ひとつ。

仏像についての本を読んでいた時に、門を守る仁王像のからくりにとても興味を惹かれました。

真南を向いている門の両脇に立っている仁王様の内、向かって右=東に立っている仁王様は口を大きく開けています。それに対して向かって左=西に立っている仁王様は口を閉じています。

それら阿吽の像の「阿形」と「吽形」は、それぞれ「始まり」「終わり」を表し、陽と陰を表しています。

門に近づいていくと、二人の仁王様に同時にひたと睨みつけられるポイントまで来ます。

どの寺だったかは忘れましたが、仁王様の衣がそのポイントから吹き出す風でたなびいています。

その瞬間、自分と二体の仁王様との対話が始まります。

私が読んでいた本によれば、阿形の仁王様は「帰れ帰れ」と言っていて、吽形の仁王様は「よし通れ」と言っているのだとありました。

二人は阿吽の形からしていっても対極にいる存在なので、正反対の事を言うのは当然なのですが、仏の教えに触れたくてわざわざやってきた信者は、神格にある人から同時に矛盾したことを命令されて、緊張と混乱に陥ります。

門を通り抜けるのか、引き返すのか。結局、それは自分で選ぶしかない。

どちらを選んでも、メリットもデメリットもあるでしょう。それを自分で引き受けるしかない、と。

門の前まで来た者は、自分の脳内で散々会議をして、覚悟をもって次の行動を決めるように誘われます。

適切な準備運動と言えるでしょう。

・・・仁王像をこういう風に作った時点で、作者はそれを明確に意図していた可能性が高いと思います。

そもそも仁王様は、男性美の結晶のような姿をしています。

リーダーシップを強く持った存在であることを表しています。

こういう細部に至るまで、すべては宗教という「機能」を果たすために巧妙に仕組まれています。

こういうのをひとつ知るたび無性に楽しく面白く、人生はハッピーランドだと思ったりもします。

現在は、あちこちの社会装置が機能不全を起こしているので、余計にこうしたものに惹かれるのかも知れません。

 

今日はここまで

ではでは