表現者>鏡について

残念なことに、二月五日に予定されてた『ザ・ファブルⅡ』の公開が、この緊急事態宣言の為に延期になった模様。映画館自体、夜8時以降の上映を取りやめているから、興収を考えてもそれが正解かと思います。それにしても、ついてないですね。ファンは、楽しみが先に伸びてしまうのが辛いとは言え、作り手の辛さには及ぶべくもないと想像できるくらいは入れ込んでいるから、まあ良いのです。岡田さんと関係者の方々は、今どんな気持ちでいらっしゃるでしょうか。すべてが片付いて今が笑い話にできるくらいハッピーな未来を祈ってます。それ以外、できること見つからないや、悔しいなあ。

ところで、岡田准一ファンだと仕事場でばれてしまってからこっち、「あなたはイケメン好きだから」みたいなことを言われることしばしばでしたが、そのたびに「岡田准一を『イケメン』カテに簡単にまとめないで!『美丈夫』って言って! せめて『男前』って!」と心の中で絶叫すること数知れず。美しい人を形容する言葉は数あれど、ニュアンスがそれぞれ異なるのでやっかいだと思います。

昨日、鏡にまつわることを書いてみたのですが、『ナルシスト』という言葉の起源を思い出して、ちょっと考えることがありました。それはギリシャ神話の、水鏡に映った自分の姿に恋をして水仙になってしまった男の子の名です。この時代であれば、鏡は金属やガラス質の石を磨いて作る高価なものしかないから、庶民が自分の顔を見られるのは水鏡だけだったはずです。ある番組で、アフリカの部族の若い女性が、日本から持ってきた手鏡で初めて自分の顔を見たというのをやってました。だから古代では、下手したら生涯自分の顔を見ずに終わった、という人もきっといたでしょう。うっかり見てしまった自分の顔が、今まで見たこともないほど美しかったらかなりショックでしょう。それが自分だと認識したら、それまで自分と他者との間に横たわっていた特殊な空気の謎も解けてしまうでしょう。かわいそう。でも、ナルシスは自分だと思わず、水の中にいる妖精だと思って恋をしてしまったから、幸せだったかも知れません。

「僕・私って美しい」という陶酔を『ナルシシズム』と呼ぶのは、この物語の性質上、おかしいんじゃないか、という意味のことをずいぶん昔に書いたことがあります。ナルシスに自意識は皆無なんだから、むしろ正反対では、と。まあ、現実を見ても素敵な人ほど自分が素敵だということに無自覚だから、鏡があろうとなかろうと、人間が自分を客観視するのは非常に困難だ、ということなのですね。

「きみの瞳が問いかけている」の中に、目の見えない明香里が、塁のことを「かっこいい?」と聞くシーンがあります。オリジナルの韓国版では、男性は困って「男らしいとは言われる」と答えますが、日本版では塁が答えに窮しているのを明香里が「かっこよくないんだ」と誤解したうえ、「男は顔じゃない、ハートだから」と慰めます。それを見た人の9割は「いやいやいや、かっこいいの極みだから彼」と突っ込みましたね、間違いなく。あと、目の手術に向かう明香里が、塁の顔を見たいと言うと、「思った以上に不細工だから覚悟して」と塁が返します。コメンタリーでは、ここで吉高由里子さんが「今、全男性を敵に回しましたね」と。同感です。私はそこで考えてしまいました。塁は、美少年・美青年だと幾度となく人から言われて来ましたよね。それを自分の内側でどう処理して生きてきたのかな、と。美しい上に運動神経抜群な男の子なんて、小中学校では一番モテるタイプじゃないですか。明香里との、塁の見た目についてのコミカルなやり取りの間、塁の複雑な表情を見ていてその心中をいろいろ想像してみたのですが、よくわかりません。横浜さんに教えていただけたらベストです。ともあれ、明香里は塁がかっこよくないと思い込んだ上で恋をしたのが、尊いです。塁が美しいので、より尊く感じます。

話は変わって。鏡といえば、連想ですぐに浮かんでくるものに『白雪姫』の魔法の鏡があります。白雪姫と敵対する王妃の、美しさへの執着のシンボルでもあります。物語のモデルになったのは、16世紀半ばベルギーで起こった事件だそうですから、登場する魔法の鏡も14世紀初頭に発明されたガラスに錫アマルガムを付着させる鏡である可能性が高いです。ちなみに今日のガラスに銀を沈着させる技術は19世紀に発明されました。古代の鏡よりはましとは言え、今日ほどの普及はなされない貴重品だったでしょう。特権階級である王妃だからこその鏡の所有。所有することで肥大する自意識。鏡というアイテムこそがそもそも黒魔法。そんな風に考えてみました。自分の顔は見えないので、鏡というアイテムさえ存在しなければ、人と自分の顔を比較することもありません。先進国で空気のように当たり前に存在している鏡が、人類を美醜についての自意識の蟻地獄に突き落とした・・・なんて言い方は大げさでしょうか。

そういう考察を積み重ねた上で、役者という表現者のすごさを再認識します。

主人公がドラマの中でヒロインに優しく微笑みかける時、その相手のことを本気で好きなのか、ソーシャルスマイルなのか、見ていると自然にわかります。でも、それは「本気か、本気でないか、演じ分けている」のであって、別にリアルでの相手に恋をしていたりいなかったりするわけではまったくないのですよね。脳科学の本でそれを解説したものを読んで、それは素人が想像しているより遥かにすごいことなんだと知りました。何をどうしたらそれが可能になるのか。自己の身体イメージを緻密にするために、努力を積み重ねてきた・・・これに尽きるでしょう。

今日はここまで