本>『天才!』『天才の心理学』

久々に、本の話。

「天才!」というタイトルだけど、原題は「ジーニアス」ではなくて「アウトライアー」だ。
正規分布の、はずれの方、という意味ではなかったろうか。ちょっとあやふやだ。


今まで、藤原竜也さんに絡めて天才論なんて書いてきたから、私のイメージを裏打ちするようなことが書いてあるだろうか、と好奇心を持って読んだ。
訳者が勝間和代さんだし、読まない、という選択肢は私にはなかったのである。

人類の歴史の最期まで名前が途切れることはないだろう、というほどの天才たちでも、努力というか、積み上げのなかった人はいない、ということは、割りと昔から知っていた。
けれど、具体的に「一万時間」というハードルがあることは本書で初めて知った。
何か誤解しそうだ。
すべての人間は、一万時間努力すれば天才になれる、という話なんだろうか。
そうではない気がする。
そもそも、我が敬愛する俳優 藤原竜也身毒丸オーディションでグランプリを獲ってから、ロンドンの舞台で「天才少年」の大絶賛を受けるまでの積み上げは、一万時間どころか、千時間もなかったはずだ。
演劇未経験者だったのだから、ダメ出しに対するたぐいまれな反応の鋭さは、訓練によって培ったものではない、ということになる。
確かに。何の訓練もないまっさらな状態で、子供たちにいろいろなことをやらせてみると、ほんの数名が飛び抜ける、というのは、誰しもが普通に経験したことだと思う。
私には、早く走れる人や、鉄棒や跳び箱が難なくできる人が、とても不思議な存在だった。
大学を出たばかりの頃に、中学校の同窓会で、かつてスポーツ部のスター的存在だった人に、「あなたは別の世界の人に見えた」と言われた。
奇妙な感じがした。
向こうは成績のことを指して言っているのだろうけど、それはお互い様だから。
こういうことは身近に普通にあることだから、やっぱり資質と努力が、天才を作る二大要素だと思いがちになる。
特に資質の方にウェイトを置きたくなる。
その方がドラマチックだから。
でも、環境や好機の力は、もっとずっと大きい、というのが本書のテーマだ。
そう言われると、もし藤原さんの才能が蜷川さんに見いだされることなく過ぎていたら、俳優として花開くことは確かになかったろう、と思う。

教育の機会を増やすシステムを作ること。
これが本書にいくつか示されている。
それは、あらゆるジャンルで必要なことかも知れない。
あらゆる若い才能の種を発芽させるようなもの。

それでも、一万時間を費やすことと、成功は、イコールなのか、どちらかがどちらかに含まれるのか。
そこのところは、私の読解力がないせいだろうか、よくわからなかった。
そもそも、自分の進歩がまったく感じられず、努力することに喜びというか意義を感じない者が、一万時間という膨大な時間を費やすことができるものだろうか、という問題もある。
私は、やっている間に自分の力を感じることができないことは、たとえある程度努力できたとしても、一万時間は無理だ。
私が一万時間を突破したものは……読書と、物書きと、パソコン……あと建築の仕事。
それくらいだ。
それでも、あまりものになっていないような気もする。
とても成功したとは言いがたい。
この本に書かれていることは、決して統計学的に導かれた理論ではない。
その点は踏まえて読む必要があると思う。

クレッチュマーの「天才の心理学」も同時進行で読んだけれど、こちらは「ジーニアス」たちの話だ。
「天才の心理学」
天才というのは、往々にして狂気と隣り合わせだというのがテーマだ。
こちらは、奇跡のような才能が、ある種の欠損をきっかけにして生じる、という理論の土台となっている。
正直、読みにくくて拾い読みしかしていないけれど、こちらは先の本より、「天才」のイメージに近い。
ただひたすらひとつことに打ち込む、一万時間もつぎ込む、というのは、生物として少しいびつなこと、という視点でいくと、この論もうなづけるように思う。

尻切れトンボだけど。