今日は、時代劇のマニアックな書き込みです。
映画やドラマや本などを見て、いろいろなことをネチネチ考えるのが好き、と前に書きましたが、最近特に考え続けているのが、ポジティブとネガティブのことです。
戦国を舞台にした物語にのめり込むと、どうしても戦に触れないわけにはいきません。
日本最大の大戦「関ケ原」では、大きなフィールドでの戦闘の流れが描かれました。
対して、「軍師官兵衛」では、兵力の温存をはじめ、全体のことを考える性質の黒田官兵衛とあって、野戦のテクニックより、調略や籠城した敵を落とす持久戦の話が多い感じです。
その卓越した頭脳によって、黒田官兵衛は生涯無敗でした。
ファンとしましては、テレビやラジオの教養番組でMCを務めている時に、隠しようもなく伝わってくる我がアイドルの深い知性や胆力を知っているので、これ以上のはまり役はない、なんて思うわけです。
すみません、ファン馬鹿です。
戦は、大別して城にたてこもっての籠城戦、外に打って出ての陸上戦・水上戦の二種類となるかと思います。
城に立てこもるのは短期的には非常に有効な手段で、堅牢な城の場合、城を攻める側は内部の三倍の兵力の消耗を覚悟しないといけないのだそうです。
ただ、戦闘が長期に及んだ場合、城の内部の兵糧が尽き、城が落ちるのは時間の問題となります。
籠城戦は、援軍がやってきて、城攻めをしている軍を外からと中からで挟み撃ちするのを前提にしないと成り立たない作戦、というわけです。
三木城の別所長治も、上月城の尼子勝久も、備中高松城の清水宗治も、援軍を期待して籠城した挙句、持ちこたえきれずに自刃しました。
長篠城では、援軍を呼びに行った上捕らえられて、命を犠牲にして味方を勇気づけた鳥居強右衛門の物語があります。
・・・つまりは、援軍を期待するかどうか、その援軍は本当に来るのか否か、が後の運命を左右する、ということです。
下手に降伏しても、領地を取られて惨めな境遇に落とされる可能性は大です。
戦の方針を決めるトップは、どうやって判断するのでしょうか。
話は飛んで。
「脳内ポイズンベリー」というコミック&映画がありましたが、その中で人間の思考が5人の人格に分かれて脳内で会議をしています。
私も含め、現実に脳内で「あーでもない、こーでもない」とやる癖のある人には、おなじみの脳内風景かと思います。
私は、この映画を見る前までは、「ネガティブ」というのは何でも否定的なことを言うこと、「ポジティブ」は肯定的なことを言うことだと勘違いしていました。
違うのですね。
映画では、モラハラする恋人に対して、ネガティブは「謝って関係を維持しろ」と促し、ポジティブは「このまま関係を解消しろ」と言うので、普段と意見が逆だな、と思って。
で、よくよく考えたところ、選択したことによって、良い結果が得られるだろうと考えるのがポジティブであるのに対し、悪い結果を招くだろうと考えるのがネガティブだということ。
それに気がつきました。まさに目からうろこ。
現実には、未来はわからないのだから、どちらの言い分にも理があります。
他にもいろいろ考えて、最終的に自分の行動を決めるしかありません。
どんな結果になっても受け入れる覚悟をするだけ。
なんとなく、ポジティブが常に正しくて、ネガティブは悪いこと、そう漠然と思ってきました。
でも、違いますね。
バッドエンディングのワーストと名高い「ミスト」では、主人公は籠城ではなく、打って出ることを選び、最低最悪の結果を招きました。
主人公の選択が、最も悪い選択だなんて、そんなの物語としてどうなの?という意見もたくさんあったようです。もっともな意見だと思います。
でも、「胸糞」な物語であることによって、忘れ去られることなく、後々まで語られることになりました。
それはそれで意味があると思いました。
主人公が「籠城戦」に出て生き残る物語では、「デイ・アフター・トゥモロー」
「打って出る」戦略で生き残る物語は、「ポセイドン」
どちらの物語もありました。
どちらが正解だったのか、すべてが終わって全体を眺める余裕を持てた時、やっとわかります。
その場では誰にもわからなかったことを、後から「正解じゃなかった」と誰かを責めるのは、もう止めにしたい。そう思うのです。
自分とは別の選択をして袂を分かつ人に対して、どうか幸あれと祈りましょう、お互いに。そう思うのです。
こういうのは、小さな日常でもいろいろ起こりそうな問題です。
覚悟をもって、選択していくしかないんだなあ、と気持ちを引き締めました。
今日はこのへんで
ではでは