『アートに親しむって何だろう』05/04/17放送 西本剛己さん

-4/17放送
ゲスト:西本剛己 さん
テーマ:「アートを親しむって何だろう」
はじめる前にひとつ。一回目の時のことを無視してしまって、冷たかったかな。私が以前から興味を持っていた『成人の儀式』について語っているところなんて興味深くて、途中までは面白かったのだけど、『エロス』と『ジェンダー』をくっつけた時点で、私の地雷を踏んじゃったので、仕方がないと諦めて欲しい。岡田くんが、代わりに自分語りしてくれたのは、リスナーたる私への深い思いやりだと受け止めた。
二回目はお話が面白くて楽しい上、私にとって特に興味のある分野で、私には初めて聞くことも多かった。それからいろいろ調べたりしている。調べるとますます面白い。「クオリア」って、それだよ、そのピースが欲しかったんだよ、なあんてつい舞い上がって、番組の感想をすっとばしてとりとめないことを書いてしまった。反省。
三回目ともなれば、岡田くんもずいぶんリラックスしてきて、ゲストの方のお話がまた楽しいので、毎週日曜日の夜が楽しみになってきた。岡田くん、バラエティなどの「借りてきた猫」状態とは別人のような、なかなか素敵なナビゲーターぶり。本当にいい番組だ。どうやら岡田くん自身が興味のある分野の人をゲストに迎えている、という話でもあるので、当然私も興味のある分野になるわけなので、先が楽しみだ。
ところで、「知の巨人」との一本勝負ということなので、漠然と自然・人文・社会科学の研究者ばかりをイメージしていたのだけど、アートの方をゲストにした企画の発想の豊かさが、リスナーとしては嬉しい。いやいや、私自身がアートに近いところにいたことがある、という事情からだけど。それでも、初めて「そういうことだったのか」というお話はいっぱいあった。特に、近代美術と現代アートの一番の違いは、近代のそれが「美」を対象にするものだったのに対して、現代アートは必ずしもそうではない、ということ。これはたぶんとても基本的なことだったと思うのに。不協和音も取り入れた現代音楽の流れと、ひょっとして同期しているのだろうか。美しいものに接した時の特有の感情というのがあって、それは人間の感情の中でも特別な位置を与えられていたのかも知れない。それが現代アートでは、もっといろいろな感情に平等に価値を認めているってことなのかも知れないな、とお話をうかがっている時に、ふと思った。
音楽もそうかも知れないけれど,そんな流れのためか、作る者と見たり聞いたりする者とのコミュニケーションを大切にする作家の方が目立ってきたと思う。これまで、それらの間には、もっと「わかっている者」と「わからない者」との断絶がどーんと横たわっていて、むしろ、「わからない者」が越えようとすることを拒んでいた気もするのだけど。気のせいではなく、その「アートに近いところ」にいた時にはっきりと感じたことだ。それが、日本と欧米でのアートのあり方の極端な差と繋がっているのだろうか。映画『東京タワー』で、街にアートが溢れているパリでの風景を見てしまって、ため息が出た。
日本の社会がストック社会ではなくて、フロー社会であるため、社会での蓄積が乏しく、見かけのGNPなどが高くても、決して一人一人には豊かさが味わえない、という指摘は、建築の分野では20年以上前からあった。確かに地震国で湿度が高い、という欧米とは違った事情はあるのだけど、それでも、やっぱりこの社会の傾向はアートと同様、今の日本人の気質から来るものなのかも知れない。対話の中にあった、すぐに結果を求めたがる、という気質。これはテレビ・映画関係も、音楽業界も、すべて抱えている重い問題のようだ。
ところで、話は変わる。「良いものほど、思い付いた瞬間にイメージが99.9パーセントくらいある」というお話だった。それって詩とそっくり同じだ。しかもそれがどうして降ってきたかもわからないし、その意味もその時点では自分ではわからないんである。もちろん、私のはただの遊びなので、拙過ぎて、浅過ぎて、比較するのもおこがましいことだが、アートをうみだす人たちも、「あの感じ」をみんな持っていると想像してみたら、どきどきしてきた。しかも、アートには、岡田くんが言うように純粋にパッションだけで形作られているのではなく、意図した部分があるんだということ。それもたぶん同じだ。『二重構造』っていうやつ? 本当に伝えたいことは、ストレートに出したら間違いなく逃げられることなので、罠はっておく、みたいな? このお話が聞けただけでも私には大収穫だった。
最後に、「さすがは岡田くん」という言葉が今回のメイン・ディッシュだろうか(笑)。すごく嬉しかった。