旅の話>人生初、ひとり宿泊

さてさて前回、初めての遠出の話をしました。横浜から笠間まで片道140kmほどの移動です。今思い出しても楽しい小旅行でした。笠間は良い街です。

それで気を良くして、その年2016年の12月10日、人生初のひとり宿泊旅を決行しました。常陸太田市にある「オープンギャラリー倉」にて、画家の星野綾子さんの個展を見に行きました。以前からSNSで精密な線描を始めとする動植物の絵を拝見していて、それらを直に見たかったし、コラボとして「カタル葉」の店主、史緒さんが植物で装飾していらっしゃったので、これは行かなくては、と。

しかし、ここで考えました。笠間の時と同じく、日帰りでも行ける距離ではあります。でも、せっかく利根川を渡っておいて、他に何も見ずに帰るのはどうなの?

そこで、一泊して水戸城の周辺も見学することに決めました。

さて、笠間の時以上に、満足な旅となりました。常陸太田は古い民家をリノベーションした素敵なカフェや雑貨屋さんもあり、展示場も古い倉をリノベしたものでした。

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この内部が•••
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この植物の間に浮遊するように動植物の絵が展示されていたのですが、そちらはちょっと公開を控えます。興味のある方は、星野さんのホームページまでどうぞ。

http://www.colorpluslife.com/

「ギャラリー」の中のイラストが超お勧めです。

水戸での宿泊先は初めて「じゃらん」のアプリを使って決めました。難なくチェックイン。ひとりで泊まれたあ!という感じ。ひとりは楽だし苦痛でもないのですが、想定していないトラブルに弱いのが弱点なのでして。

アプリと言えば、目的地まで行くのにGoogleマップに頼りきりでした。あと、乗り換え案内とスケジューラーも。これらがこの世に現れなかったら、未だに出不精のままだったかも知れません。

水戸では、偕楽園を散策しました。花がまったく咲いていない梅の木の枝ぶりが返って趣があり、青々した竹林も立派で、園の中に建っている好文亭も素晴らしく、すっかり堪能しました。

都心からこんなに近いところにこんな素晴らしい場所があるのに、上京してから40年一度も来たことなかったなんて、馬鹿なの、私?

その時、行きたいところには、迷わず一人でも行こう、行ける人になろう、と決めたのでした。

 

次は、いきなりの7泊8日のみちのくひとり旅です。城巡りの本格スタートです。

つづく

 

物語考>教師と憧れ

今、ドラマでは「青のSP」を見ています。

聞くところによるとドラマとして鉄板物には「病院物」「警察物」「学校物」の3つがあるそうで、その内の「警察」「学校」の2つをミックスしているドラマという点が新しいと思います。

教師や生徒間の暴力がお咎め無しの時代を生きた者としては、「イジメは犯罪だ」という台詞はスカッとします。シンプルなのに、それまで意識にのぼることのなかった発想ですね。いい時代になったと思います。

それにしても思うこと。先生が大変なのは理解できるけど、生徒も自我の発達の過程にいて大変で、大変な者ばかり同じ空間にいるこの学校システムは、本当に危ういものではないかと。

私はどうも教師には疎まれるたちだったらしく、ほとんどいい思い出がありません。小学校教師になった幼馴染から「教師は、いくら教えても伸びない子も、あんたみたいに1人で勝手に勉強して高成績とる子も、嫌いなんだよ」と言われました。存在意義を否定された気がするからだとか。そんなこと言われても。でも、それで謎は解けました。

また、子供の頃からひとり好きで、ヒエラルキーのトップに立つことに執着するタイプの同級生に、たびたび目をつけられて執拗なイジメにあっていましたが、その「ボス猿」は、私の知る限り全員教師になりました。私が目をつけられて嫌な目にあわされた教師たちの謎も、これで解けました。

一方、「この先生がいてくれたから」と感謝したい人たちはいます。私は、好奇心でキラキラしたタイプの先生と、哲人の空気感を持った先生が好きみたいです。

 

話は変わって。

岡田さんが中学時代憧れていた先生、いつぞやテレビでお見かけしました。子供たちにラグビーを指導しているところが、穏やかなのに熱くて、岡田さんの言われた通りのカッコいい人でした。インタビュアーが「岡田さんが先生に憧れています」と伝えたら、照れてらっしゃるのが素敵でした。

しばらく経って、テレビの企画で、岡田さんが子供たちにアクションの指導をしました。それを見ていて、ふとデジャブ。憧れのあの先生にそっくりだ、と。

静かなのに熱くて、教えているのは確かにアクションでラグビーではないけれど、それを通した普遍的で大切なことを何としても伝える、という気迫がそっくり。それって、教わる側にとっても、自分たちが「進歩していく者」として敬意を払われてる事でもあります。

厳しい練習にも挫けず、子供たちがきっちりついてくるところも、この信念あればこそでしょう。

その日から、こんな仮説が立ち上がりました。

「人間は、自分が憧れた人になれる」

もしくは「人間は、なれる可能性のある人に憧れる」

私が憧れていた友人のお母さんは、私の「母親モデル」でしたが、娘との関係性なども考えると、何とか近づけた、成功した、と思います。「ああはなりたくない」という台詞より、「あんな風になりたい」の方が人生には美味しい、と確信した次第。

 

今日はここまで

では

物語考>ふたりの主人公

最近、つい出来心で、ひとりの部屋で映画「来る」を見てしまいました。

絶対に後でトイレに行けなくなるとわかっていたのに、つい。

この頃のやさぐれ風味のビジュアルがかなり好きだし、ブッキーも出るし、なので、気持ちが潤うと思ったのですが、潤うより先に凍りつきました。怖い・・・。

岡田准一主演、ではありますが、濃いキャラが次々と登場するので群像劇の雰囲気を持っています。その時に映っている人間がメイン、と言うか、「来る」何かがじっと見ているビジョン(おそらく)なので、非日常的な重みがある、と言うことなんでしょうか。

その「何か」は、鏡と刃物が苦手、というのも意味を勘ぐりたくなる薄ら怖い話です。

さて、原作では一人称で語る主役が三人いて、リレーのように主役が入れ替わっていく、ということでした。

「見られている人」と「見ている人」がリレーして入れ替わっていくのですね。ぼぎわんの犠牲になって退場していくから。

一人一人にはそれぞれちゃんと人生があったのに。

最後、ようやく全てが終わって、リレーも止まって、大人2人と子供1人の暮らしが始まりそうになります。ほっとしたら、何だが不気味な余韻が残るのは、「キャリー」みたいで好き。

 

話は飛んで。

それにしてもこの構成、面白いなと思います。

ずいぶん昔、岡田さんが出演した「反乱のボヤージュ」に絡んで「見る主役」と「見られる主役」について書いたことがあります。

クレジットされている主演とはまた違うものです。

退去を迫られている東大の寮を舞台にした、管理人と、寮の学生の物語でした。

観客に心の声がわかる「見る主役」、その人の眼の中で生きている「見られる主役」。

「見られている人」は自らは語らない、偉大さや、謎めいた魅力のある人の場合が多い気がします。

岡田さんは「見る主役」として、まことに適任でした。あの真っ直ぐな眼であれば、物事の飾りに惑わされず、本質を見抜けるのだろう、という説得力ありました。

同じ構図の物語としては、

映画「エベレスト」は、ひとりの偉大なクライマーと、それをずっと見続けているカメラマンの物語でした。

映画「永遠の0」は、特攻で亡くなった零戦パイロットと、その人の真実に迫ろうとする孫の物語でした。このお話の終盤、零戦に乗った久蔵さんの幻を、孫が見る場面で毎回泣いちゃうのですが、今は、久蔵さんと孫の2人を、泣く羽目になりました。悲しい。余談でした。

 

これが、ラブストーリーとなると、関係は双方向だから、「見る」「見られる」関係も、ボケとツッコミがたびたび入れ替わるやすきよ漫才みたいな変化のあるパターンかと。

大体、男女の行き違いは、相手の気持ちの読み違いから発生するのがほとんどだし。いえ分かんないですが。

そんな訳で、見るのも見られるのも双方向のW主役となります。

横浜流星さんがW主演された「私たちはどうかしている」は、それぞれの心の声が聞こえました。見ているこっちは、「それ、声に出して相手に伝えなくちゃダメじゃん!」ともどかしさにのたうち回る運びになります。作り手の思う壺ですね。

同じくW主演された「きみの瞳が問いかけている」は、女性が視覚障害を持っているため、関係が独特でした。心の声こそ聞こえないものの、お互いがいない場所で、お互いのことを考えていることが伝わって。そして、向き合う時が本当に労りに満ちた優しい空気で。

ラブストーリー、苦手意識あったんですが、こうやってみると悪くないですね。

 

さて、まだ確定ではないようですが、新ドラマの噂が聞こえて来ました。楽しみです。

では

 

歴史>徳川家康役のこと

大河ドラマ麒麟がくる」の最終回を見ました。明智光秀の死が直接描かれず、数多ある生存説を匂わせるような終わり方だったのが、とても新鮮でした。

あちこちの感想ブログを読みに行って、その中でも、光秀生存説でも有名な「天海説」をドラマは採用したのではないか、という文が一番面白く感じました。

徳川家康との心の絆が丁寧に描かれていたのも納得です。後の世の私から見れば乱世の中、麒麟を連れて来たのは天海の仕えた家康ですから。風間さんの繊細な面を持った家康、良かったです。

海上人が所有する兜の前立てが麒麟であった、と知って、タイトルも含めて緻密な物語だったな、と感じ入りました。

まあ、フィクションだとは思いますが、大河を見続けて良いところは、あらゆる切り口で歴史を見る癖がつくことだと思います。

余談ですが、行ったことのある名城の数々が登場するのも堪えられない楽しさ。一乗谷の朝倉氏の庭園なんて、落涙ものでした。

 

ところで、岡田准一さんは、大河「軍師官兵衛」では、三英傑に仕え関ヶ原合戦では九州で東軍として戦った黒田官兵衛を演じ、一転、映画「関ヶ原」では西軍の石田三成を演じました。

映画の宣伝の中で、半分冗談のように、いずれ徳川家康を演じたいと語られたので、ファンとしましてはがっつり本気にすることにしました。

ずっと楽しみにしてるからね、絶対だからね、責任とってね(笑)。

関ヶ原での徳川家康は57歳。実年齢で演じるとしたらあと17年後。現代人は戦国時代よりも肉体的にずっと若いそうなので、もう少し後でも大丈夫ですね。

石田三成は家康の17歳年下です。実年齢でいくと、現時点で23歳くらいの若手の俳優さんですか、アラフォーの頃に時代劇が似合いそうな人は、まだわかりませんから、今後の楽しみ、と言うことで。

ただ、ひとつ重大な問題がありました。その頃、私は80歳を超えます。それまで生きていられるかどうか。それと言うのも、父方が血栓家系で、元気な人がバリバリ働いていたかと思うと次の日にはもういない、とか当たり前にあったから。死生観があれにだいぶ影響されました。

岡田さんの家康を見ずに死ぬのは嫌だなあ。

徳川家康は、漢方薬を自分で調合したり、馬の鍛錬を欠かさなかったりする戦国の健康オタクだったそうです。豊臣子飼いの武将、特に加藤清正が亡くなる後まで生き抜き、70代で豊臣を滅亡まで追い込んだのは、その地道な努力の賜物でした。あやかりたいものです。

 

話はかわって。

役作りも、歴史上の人に寄せるのはなかなか大変でしょう。

家康の風貌ですが、年齢による変化が大きくて、若い頃と晩年では同一人物とは思えないほどです。タヌキとか言われた晩年がパブリックイメージですが、若い頃はそれなりでした。

ただ、目だけはずっと家康のまんまでした。瞼にかからず瞳がまん丸に見え、かつ虹彩の色が薄く、瞳孔が黒い小さな丸になってくっきり見える目は、肖像画すべての共通点です。

「虎の目」と呼ばれるこの目ですが、まん丸な瞳は真っ直ぐで人懐こい印象を人に与え、薄い虹彩は引き込まれるような引力を持っています。「鬼滅の刃」の煉獄さんがまさにこの「虎の目」ですね。

家康は、この瞳の魅力もあってか人を虜にする人だったと伝えられています。岡田さんは、綺麗な目をしてらっしゃるので、きっとリアリティのある家康になるでしょう。楽しみです。

 

ところで、2023年の大河は、主人公が徳川家康で、松本潤さんが主演されるとか。

うんうん、岡田さんと共演した映画「Tokyo tower」での、ギラギラしてるけどどこか上品、適当そうに見えて実直、という複雑さを持った若者像が魅力的だったので、期待しています。家康の人を引きつける力は、ご本人も持っていらっしゃる力だと思いますし。

また、違う切り口の大河を見せていただけること、楽しみに待っています。

 

今日はここまで

 

 

 

旅の話>はじめに

去年まで勤めていた仕事場での私のキャラは、「城旅マニア」でした。月一で金曜日に大きなリュックで出勤しては、退社後速攻電車に飛び乗り、2〜3泊の城巡りの旅に出かけていたのですから当然そうなります。「そんなバイタリティ羨ましい」とよく言われましたが、沼にはまればどんな人でもそうなります、たぶん。自分でも、まさかこうなるなんて予想してませんでしたから。

我がアイドルに出会った頃、自他共に認める超インドア派、引きこもり人間でした。仕事と買い物にかろうじて出かけるくらい。

ついでに言うと、軽く鬱状態だったのがファンになったのをきっかけに明るく元気になったものの、それでも明るいインドア派止まりでした。

ファン活動が長くなるにつれて、彼があちこちに出かけて見聞きしたことの感動を話しているのを聞いて、それまで感じたことのない悲哀を覚えるようになりました。同じものを、生きている間に見るのは私には無理なんだろうなあ、と。何でそんなに悲しいんでしょ。よくわかりません。

やがて、娘が大人になって、私をあちこちに連れて行ってくれるようになりました。

京都、金沢、飛騨、会津、姫路、瀬戸内、ニューヨーク、台湾。お金は私が全部出すか、折半してやや多めに出すかではあっても、心はかなり娘に依存していました。特に、娘は英語が話せるから海外では依存しまくり。

ある時、娘が福島県郡山市のイベントで花まみれになって踊りました。Youtubeで見たらあまりに面白く、直に見られなかったのが悔しくて、次に同じようなイベントがあったら迷わず行こうと決めていました。そのチャンスは直ぐにやってきました。笠間の陶芸館での陶器と花のコラボです。当時はまだ1人で行く発想がまったくなかったので「行こうよ」と娘を誘うと、ロッキンの日と重なっているから、とあっさり断られました。

諦めるの?後悔しない?しないわけない、絶対後悔する。じゃあ1人で行く?今まで1人で利根川越えたこと一度もないのにできるのかな私。仕方ない、やろう。やってみよう。

そこで行ったのが写真です。

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ギターの生演奏と共に、中心に陶器を持って座った女の子(これがまた美しい子でねえ)の周りに植物が活けられて、最後は女の子がすっぽり埋まって、写真のようなオブジェになりました。時間にして2時間弱。本当に行ってよかった。見られてよかった。

成功体験と呼ぶには、今から考えると笑っちゃうほど小さい体験ですが、それでも当時の私には大冒険でした。体験によって得たものの大きさも想像以上でした。ひとつクリアすれば、その上に行けます。なんだか、ロールプレイングゲームのようです。最初に手強かったモンスターも、自分のレベルアップに伴って、笑っちゃうような雑魚キャラになってしまう、あの感じ。

日帰りではあっても、生まれて初めて単独で利根川を越えました。次は単独での泊まり旅です。それも花のオブジェに釣られて、でした。

 

つづく

 

ps.

イベントの詳細を。2016年8月14日。笠間。

■陶器展の主催者は沼野秀章さんという方で、益子陶器市でも毎回出品されています。我が家も少しずつ器や花瓶を買わせていただいて、今や沼野さんの器に触れない日はないほどです。いつか、我が家の陶器コレクションを見せびらかし・・・いえ、お見せしようかと思います。

https://instagram.com/numaani0005?igshid=nmxkdwbbz193

■花は、以前からご紹介しているカタル葉の店主、史緒さんです。植物を用いたアート、、、一度見たら忘れられないものを作られます。

https://instagram.com/catalpa.site?igshid=e2u52xz2bj07

■モデルは、仲間からミーモと呼ばれている女性です。てっきりプロのモデルさんか女優さんかと思っていました。たくさん被写体もされています。そんな写真のポストカードも街フェスで買って持ってます。ああ、見せびらかしたい。

■演奏は、「START OF THE DAY」のお二人です。メロディがあるようなないような、川の流れのように音が流れていく、そんな音楽で、聴いてパフォーマンスを見ているとトランスしそうでした。禅の境地?瞑想?

 

思い出したら、胸がギュッとします。コロナが納まったら、もう一度見に行きたいな。

 

 

 

 

エッセイ>植物と神話の話

さてさて物心ついた頃から、突発的に粘着質に調べ物をする、という性質を持っています。INTJの基本性格です。ちなみに手相にも頭脳線から二又に枝が出る「好奇心線」が、これでもかとばかり深く長く刻まれております。

そのきっかけは、多くの場合、人の何気ない言葉からです。我がアイドルからは武道や戦国史を。そして、他にもいくつもあります。

 

以前、一番好きな花屋「カタル葉」さんの話をしましたが、ブーケを販売する傍ら、北関東を中心にフラワーアレンジメントの教室を開いておられます。

私は未経験ですが、娘は数回参加していて、その教室ではブーケやアレンジメントやリースの作り方を教わる以上に花にまつわる様々な話をしていただけて楽しい、と聞きました。

先生は国立大学の園芸学科出身で、娘によれば、先生の知識はそんな植物学以外にも世界中の神話についても無尽蔵で、話の面白さはそれはもう大したものなんだとか。

先日書いたナルシス=水仙もそうですが、神話には、人由来の植物や象徴的な植物もたくさん登場しますから。

そんな先生がある日、ギリシャ神話のオルフェウスと日本神話のイザナギの冥界旅行の話には不思議なことに多くの共通点がある、と述べられました。

私こういう謎、大好きなんです。例によってその理由についてネチネチ調べてみました。

どうやら、メソポタミアの人類最古の神話、シュメール神話が共通の源泉だから、のようです。

冥界旅行の話、シュメール神話にありました。

死んだ友人を連れて帰ろうとして叶わず、魂だけを持ち帰ったという王の物語です。

数千年かけて古代ギリシャと日本までモチーフが伝わっていったなんて、イメージしきれないほど壮大なスケールです。

ちなみに、旧約聖書もシュメール神話のモチーフを引き継いでいます。

ギリシャ神話の「デューカリオンの大洪水」と旧約聖書の「ノアの大洪水」は、シュメール神話の大洪水伝説と酷似しています。

チグリス•ユーフラテスの間に栄えたシュメールならではのモチーフです。

ここで考えました。

物事が伝わった経緯なんて、文明が築かれた後のものでさえ、途切れて分からなくなってしまう•••そんなことすら、普段意識しないでいるんだな、と。

この世界が天地開闢からあり、世界の終わりまで今のままでいるかのような錯覚の中、暮らしているんだな、と。

鏡が存在しなかった世界が確かにあった事すらイメージできないように。

もうひとつ考えました。

源泉はひとつでも、よく見るとそれぞれの展開には決定的な違いがあります。

旧約聖書には、ギリシャ神話のような人が他の動植物に変わる「転身物語」がありません。

無機物→人間、人間→無機物の変化はあれど、他の動植物と人間の間の行き来がなぜかないのです。

人間が死して無機物に変化してしまうのは現実です。

原始、神がその逆の流れで人間を作ったという発想も理解できます。

でも、それだけなのですね。

旧約聖書には、人間を他からきっぱりと区別する思想が根を張っているのだと思いました。

むしろ、他の動植物と融和しているギリシャ神話の方が異端なのでしょうか。

人間の内面の多様さは、戦略の多様性を表し、植物の多様さにも通じると感じるので、メタファーとして有効かと思います。

家紋の話や、「七桜」「椿」の名前の話とも、ここで繋がりました。

 

花や植物の沼は、どうやら思ったより深いらしく、もうちょっと探ってみようかな、と思っています。

 

今日はここまで

 

PS.

メタファーで思い出しました。

花には花言葉があります。

ギリシャ神話由来の花言葉も多くあります。

生まれて初めて自分の為に作っていただいたブーケには、三本の花が入っていました。

キングプロテア「王者の風格」、紫のアネモネ「信じて待つ」、ホワイトマム「母の愛」でした。

これらを化学合成したような人間を目指して生きるのは、なかなか良いな、と思いました。

 

エッセイ>天使について

まだ、我がアイドルが10代だった頃でしょうか。ある戦略をもって彼を「天使」に例えたことがあります。「ほーら、痛いジャニオタが、痛いことを言ってる」という反応がネットのどこかで表れることを期待してのことです。今風のネット用語で言うところの「釣り」ですね。私はパソコン通信時代の黎明期からのネットワーカーなので、この辺りの「キーワードに対する過剰反応」への予測は割と正確にできる方です。そして予測が的中したのを見て、次の段階に踏み出したのです。目的は、彼が表現者として世界に寄与できる稀有な人間だと訴えることでした。

さて、私と「天使」との出会いは、絵本から始まります。それは家にあった「ナイチンゲール」の伝記絵本でした。犬を親身に看病する心清らかで優しい少女は、クリミヤ戦争の傷病兵を看病する看護婦になり、天使と呼ばれました、というお話です。看護学校を作った等の業績は最後の1ページのみ。子供心に、女の子は天使になって自己犠牲に務めなくてはならないと迫られている嫌な感じがしました。

中学生の時にナイチンゲールの日記や手紙、論文などを解説した研究本に出会いました。その本によって、絵本の最後のページ、あれこそがナイチンゲールの人生の本番とでもいうべきもので、それまでは助走に過ぎないことを知りました。その業績について興味のある方にはWikipediaなどを読んでいただければ良いかと思います。でも、これほどの偉大な人がなぜ日本では「献身の天使」で固定しているのだろう、という疑問が浮かびました。絵本でのイメージとは違って、ナイチンゲールは「足るを知らず、怒れる魔女」とも呼ばれていたとか。戦地でスタッフに反感を持たれて兵糧攻めにあったことも、手紙に書いてありました。

ナイチンゲール自身は天使についてこう語っています。「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」。これにカルチャーショックを受けました。キリスト教圏の人と、そうでない者との隔たりは、なんて大きいのだろう、とも。

そこで考えました。天使とは、文字通り天の使いなのだから、人間より上位の存在のはずです。だけど、日本では天使と呼んだ相手を見下し、自分の利得の為に利用して良い存在だとするニュアンスがあります。対して、聖書では、天使に「これをやれ」と命じられたら、それがどれほど困難で、大事な物を失ったり命が危険にさらされるようなことでも、やらなくてはならないのですね。神からの伝言だから。その厳しさを理解した日から、「天使」という言葉を使う時には覚悟がいるのだと思いながら生きています。

娘を身篭ってまだ気がつかなかった時、白い天使に受胎告知される夢を見た、と前に書きました。それまでの思考の積み重ねのせいでしょうか。夢の通り妊娠していると分かった時、これは覚悟がいることなんだな、と気が引き締まりました。問題を抱えた子が生まれた時の苦労は分かりやすいのですが、極めて優れた子が生まれた時の苦労は案外理解されにくいかも知れません。モーツァルトピカソの家族は、神童に人生を吸い取られてしまいました。もし、天使の夢がそんな困難を示唆するものだったら、覚悟と勇気を持ってその役割を全うしようと心に決めました。苦労どころか、親に幸せをくれるいい子が生まれて来た、というのが落ちですが。

我がアイドルと初めて出会った時、何かこう聖性というか特別な感じがして、同時に懐かしい感じがしました。その時、生活が重過ぎてもう何も考えない感じない、そんな風に暮らしていたのですが、なんだか気持ちがちょっと明るくなったのですね。それからドラマを「うっわ、かわいい」なんて楽しんで見てたのですが、ある歌番組でソロで歌ってるのを見た時、突然胸騒ぎがして。その昔、山口百恵さんが歌の音程をふいに外して涙をこぼし(たように見え)たのがフラッシュバックしました。何か苦しんでるのかなあ、と。

テレビの中の人には何もしてあげられない、と愚痴を言ったら、当時の夫に「応援ホームページを書いたら」とアドバイスされて、恐る恐る立ち上げて。そうしたら、言葉が天から降って来て、溢れて。ますます世界が明るくなりました。ありがたい。でも、同時にもっとちゃんと生きよう、とも思ったのです。自分よりいい加減で怠惰な人に応援されるなんて、私だったら嫌ですから。あくまで、私だったら、です。人間にやるべき事を示す存在が天使なら、まさにあの時の我がアイドルはそうだった、ということですね。

人生の中でこんな風に力づけてくれる出会いというのはたくさんは無いので、ひとつひとつ大切にしたいと思う次第です。

 

まとまってないけど、今日はここまで。

では。