物語考>ふたりの主人公

最近、つい出来心で、ひとりの部屋で映画「来る」を見てしまいました。

絶対に後でトイレに行けなくなるとわかっていたのに、つい。

この頃のやさぐれ風味のビジュアルがかなり好きだし、ブッキーも出るし、なので、気持ちが潤うと思ったのですが、潤うより先に凍りつきました。怖い・・・。

岡田准一主演、ではありますが、濃いキャラが次々と登場するので群像劇の雰囲気を持っています。その時に映っている人間がメイン、と言うか、「来る」何かがじっと見ているビジョン(おそらく)なので、非日常的な重みがある、と言うことなんでしょうか。

その「何か」は、鏡と刃物が苦手、というのも意味を勘ぐりたくなる薄ら怖い話です。

さて、原作では一人称で語る主役が三人いて、リレーのように主役が入れ替わっていく、ということでした。

「見られている人」と「見ている人」がリレーして入れ替わっていくのですね。ぼぎわんの犠牲になって退場していくから。

一人一人にはそれぞれちゃんと人生があったのに。

最後、ようやく全てが終わって、リレーも止まって、大人2人と子供1人の暮らしが始まりそうになります。ほっとしたら、何だが不気味な余韻が残るのは、「キャリー」みたいで好き。

 

話は飛んで。

それにしてもこの構成、面白いなと思います。

ずいぶん昔、岡田さんが出演した「反乱のボヤージュ」に絡んで「見る主役」と「見られる主役」について書いたことがあります。

クレジットされている主演とはまた違うものです。

退去を迫られている東大の寮を舞台にした、管理人と、寮の学生の物語でした。

観客に心の声がわかる「見る主役」、その人の眼の中で生きている「見られる主役」。

「見られている人」は自らは語らない、偉大さや、謎めいた魅力のある人の場合が多い気がします。

岡田さんは「見る主役」として、まことに適任でした。あの真っ直ぐな眼であれば、物事の飾りに惑わされず、本質を見抜けるのだろう、という説得力ありました。

同じ構図の物語としては、

映画「エベレスト」は、ひとりの偉大なクライマーと、それをずっと見続けているカメラマンの物語でした。

映画「永遠の0」は、特攻で亡くなった零戦パイロットと、その人の真実に迫ろうとする孫の物語でした。このお話の終盤、零戦に乗った久蔵さんの幻を、孫が見る場面で毎回泣いちゃうのですが、今は、久蔵さんと孫の2人を、泣く羽目になりました。悲しい。余談でした。

 

これが、ラブストーリーとなると、関係は双方向だから、「見る」「見られる」関係も、ボケとツッコミがたびたび入れ替わるやすきよ漫才みたいな変化のあるパターンかと。

大体、男女の行き違いは、相手の気持ちの読み違いから発生するのがほとんどだし。いえ分かんないですが。

そんな訳で、見るのも見られるのも双方向のW主役となります。

横浜流星さんがW主演された「私たちはどうかしている」は、それぞれの心の声が聞こえました。見ているこっちは、「それ、声に出して相手に伝えなくちゃダメじゃん!」ともどかしさにのたうち回る運びになります。作り手の思う壺ですね。

同じくW主演された「きみの瞳が問いかけている」は、女性が視覚障害を持っているため、関係が独特でした。心の声こそ聞こえないものの、お互いがいない場所で、お互いのことを考えていることが伝わって。そして、向き合う時が本当に労りに満ちた優しい空気で。

ラブストーリー、苦手意識あったんですが、こうやってみると悪くないですね。

 

さて、まだ確定ではないようですが、新ドラマの噂が聞こえて来ました。楽しみです。

では