人生を変えた読書&鑑賞 その2~『罪と罰』

読んでいる本のタイトルが知られると、周囲に引かれる、というものがある。
たぶんその中でも、トップクラスに位置するであろうと思う、『罪と罰』。
20代の前半頃に読んだ。
名作、と呼ばれるものに強い憧れを抱いていた中学生の頃、何度もトライしては挫折した。
挫折する主たる理由は、ロシア文学特有の、人間の名前の様々な変化が理解できず、途中でわけがわからなくなってしまうのがひとつ。
どうして「アヴドーチャ」が、私に何のことわりもなく「ドゥーニャ」になるんだ?
「ド」しかかぶってないじゃん。
しかも「ドゥーネチカ」って?
ひとつに絞ってくれないかなあ、一貫性がなさ過ぎ!
……日本だって、名前の頭が「たつ」だったら「たっちゃん」であり、なおかつ「たっち」だってことを忘れている中坊であった。

(日本語を勉強している外国人は、英語を勉強する日本の中学生みたいに、単語カードで「たっちゃん」=「『たつや』の愛称」なんて、一生懸命暗記するんだろうか。くすっ)

そんな調子。
また、中学生の読解力では、その国・時代特有の制度や文化が理解しづらく、結果人々に感情移入できず、読書意欲が低下してしまった。

それが、24歳の私に、まるで「出会うのを待っていた」かのようにぴたっと心に来た。
これが本当に、あの壁のように立ちはだかっていた『罪と罰』なんだろうか。
理由は自己分析するでもなく、私も、主人公ラスコリーニコフと同じく、志半ばにして学問を放棄したばかりだったからだ。
経済的な理由もあったし、精神的に追い詰められていたせいもあった。
まあ、男性が100パーセント近く占める中で一人で頑張っていたのだから、限界だったのかも。

そんなわけで、読み進めるうちに、物語の主人公ラスコリーニコフは主観的に自分自身になっていく。
自分に都合のよい身勝手な理論を打ち立てて、残忍な人殺しをし、無関係な者を巻き添えにし、良心の呵責の挙句に狂って、聖なる娼婦の生き方に救いを見出す。
……正直に告白してしまうと、本当にラスコリーニコフの魂に救いが訪れたのかどうか、そこのところは読了してもよくわからなかった。
胸の一番底でマグマのようにうごめいている、鈍い怒り。
それこそがラスコリーニコフと私の魂の基調だったから、最後までついていったのに。
それがどうやって救いに至ったのか、私自身が現実に救われていなかったので、リアルにはわからなかったのだろう。
でも、芥川龍之介の『杜子春』のように、悪夢から醒めて、「ああ、やらないでいて本当に良かった」という安堵には包まれた。
あれからだった。それまでの苦い思いに決別して、自分にできることからこつこつやっていこうと思ったのは。
とりあえず、自分が世界の中のどの当たりにいるのか、ということを、完全に頭から追い出すことから始めたのは、ラスコリーニコフから学んだことだ。
人と自分とを比べるのは、私にとってモチベーションを下げるもとだ。
「私は私」……これを言うと、ひどく自己中心的な人だと思う人が多いんだけど、それは仕方がない。
他者への侵害を正当化する理論は、途中で破綻して自分も滅ぼすから、そこはきっちり回避すべし。
その点、私は女性なので、気持ちを整備するのが楽だった。
まあ、具体的には、その時にやっていた仕事をビジョンと希望をもって進めていこう、と。
コンピューターとの運命的な出会いは、それからまもなくであった。

その時の私には、学問の世界、仕事の世界、すべてのステータスと繋がる輝かしい世界から、男性たちがスクラムを組んで、女性を排除しているように見えた。
にたにたした卑しい笑いを浮かべながら、「結婚が女のしあわせ」と言う人間に何人出会ったろう。
その人間たち、世の中に『セクシャル・ハラスメント』という言葉が生まれ、かつての自分がその加害者と知って、どんな顔をしただろうか。
いや、それを言った「女性たち」は、未だに何も感じてはいまい。
だから、私の抱いた殺意を、みんな知らない。
しかし、よくなって来たとは言え、未だに世界は私にそう見える。
だから、私は娘をもっと上に送り出すカタパルトになる。
私のように、濁った感情に囚われることなく、明るい瞳で、もっと広い世界を体験して欲しい、と思っている。

つづく