書くための本を読み続けて

イメージ 1

その人がやっていたスポーツの特性で、その後の体つきやメンタリティにもかなり影響が出る。おおざっぱに言っても、持久力のスポーツと、瞬発力のスポーツでは、かなり要求される資質は違ってくるし、それぞれのスポーツの性質によって、動体視力だったり、柔軟性、足腰のバネ、肺活量、音楽的センスなどなど、様々な能力が鍛えられることになるだろう。
それと同様に、就いた職業によってその人の内部で鍛えられる能力もさまざまだ。ほんのちょっとした仕事の違いで、見かけ似ていても違ってくる。この当たりは、たくさんの職種の人が集まって一緒に仕事をしている仕事場での実感である。そして、書く仕事も実に細やかに、その違いが出るものだと、最近思うようになった。

ずっとライティングを私なりに鍛えてきた流れで、シナリオの通信講座をコンプリートしたあと、「書く仕事」をしている人たちについて、ずっと調べ続けている。自分にとって未知の世界のことでも、新書五冊も読めば、だいたいどんな様子なのか像が掴めるものだから、「書くこと」についても、パターン認識が自分の中にすぐに生まれるはず、と思っていた。だけど、どうもいつもと違う。何冊読んでも、まだ混沌とした感じがする。娯楽作品の書き方入門的なものも四冊ほど(ひとつはスティーブン・キング著)、作詞家の本が二冊、脚本家のが三冊、雑誌記事のライターのが一冊、エッセイストが一冊。読んできた。それに加えて、今回のリストでは、「まだ見ぬ書き手へ」は純文学。「執筆論」は書評を主とした評論。「伝わる・揺さぶる!文章を書く」は論文・手紙をはじめとする人を説得する文章。「ウェブ進化論」はネットにおける伝達全般。残りはノンフィクション。「書く」という一点では同じなのに、やっぱりひとつひとつとても異質だ。
よく考えると、書く仕事に「ついて」、まさに書く仕事をしている人たちが書く、というのは不思議な営みだ。そんな特殊な本を数十冊も読んできたことになる。脳内でまとまりの欠けた化学反応をするのはそのせいだろうか。そんな風にも思った。
昨日「伝わる・揺さぶる!文章を書く」山田ズーニー著 PHP新書 を読み終えてはっきりした。この「書く」世界では、価値観がまだ確立しているわけではないらしい。みんなばらばらの理念・価値観に基づいて執筆しているし、それは時々ぶつかり合ったりもする。ものさしがいくつも存在しているのは、表現する仕事ならではの特殊事情だろう。どの分野のクリエーターでも口を揃えたように、「売れる」ことと、作品の「良さ」は必ずしも連動しないと証言するので、書くことも当然、その枠を超えられないんだ、ということなのか。問題はそれだけではないのかも知れない。書くことは、表現する中でも、特に「自分ブランド」の傾向が強いものだから、ということもおそらくある。

さて、件のブックリストは、「文章で稼ぐための必読書」とあったし、本はまず素直に読むべし、という筆者のアドバイスもあったので、書かれていることをすべて受けいれる体制で読み進めてきた。だけど、これは読者にある種の効果を無意識に与える、最高級のトラップではないかと思えてきた。「どこにも書かれていない、だまし絵のような真実」が見えてきてしまう仕掛け、ではないかと。これも一種の誤読ってやつでしょうかねぇ。

それはどういうことかというと、たとえば、リストの著者の幾人かに、違うジャンルの人に対して含むところがあるとしたら? 語らなくても、それがどうしても文ににじみ出てしまうとしたら? 続けて読んではじめてそれが見える。もちろん、どれにも一理ある。でも物理法則ほどには確実な基準が存在しているようにも見えない。だから、それを読む読者の私としては、その矛盾をどう消化するか……。結局は、自分の納得いかないことを100%受け止めることは無理なんだと悟った。個人的には、純文学的生き方にはどうしても魅力を感じない。ノンフィクションは、誰にでもできることとは思えない。すごく長いスパンでの訓練を必要とするものだと感じた。

結局、着地点が見つからなくなってしまった。私には論文は向かない、ということだけはわかった。