『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』初日、見てきました

見てきました。『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』。
予想を上回る、『直球勝負』だった。
なんだ、変化球しか投げられないから、変化球投手……じゃなかったんだ。
ものすごい良かったわぁ。
私は『日本シリーズ』の、あの玩具箱をひっくり返したような空気も、
それはそれでなかなか好きだったのだけど、
確かにこちらは、正しく物語の流れを締めくくるものだったと思う。

ところが、私は上映中、まったく泣けなかった。うるっとも来なかった。
ぶっさんの臨終も、蘇ったぶっさんが消えていくところも。
すすり泣いている声があちこちから聞こえる中で、泣かずにスクリーンを見つめていると、
自分はひょっとして変じゃないか、と思ってしまった。
寂しかったし、悲しくはあったのだが。
映画としての後味はまったく悪くないのに、
ただ、首まで土に埋まっているような閉塞感がずっと続いている。
これは、『嗤う伊右衛門』以来だ。

とうとう終わっちゃったんだな。
物事の終わりをイメージの中で補償していると、たいていの痛みをごまかせる。
ごまかすのは、ただ問題を先送りにしているだけなのだと、頭ではわかってても、
「それをするのは、別に『今日』じゃなくてもいい」で、またまたごまかせる。
だから、どうあがいてもごまかせない時が来るととても閉塞した気持ちになるな。
何となく、ぶっさんは永久に死なないっていうか、永遠の『余命半年』を行き続けるような気がしてたから。
『サタデーナイトフィーバー』が、「享楽を支えにして、日常をおろそかにして生きちゃ駄目だ」というテーマだったのに、それをきっかけに空前のディスコブームが起こった皮肉な歴史を思い出した。
死を見つめて生きろ、というテーマのもとにスタートしても、死の物語は、死から目をそらすツールにも使えてしまう。
それを丁寧にかわしつつ、それでも取り込まれそうな流れをびしっと拒絶して締めくくった最後。
何とおそるべき製作陣であろう。
ここまで来たら、ぶっさんの死は、どうあっても受け入れないといけないんだろうな。
あんなに息子を愛している公助とうさんか、しっかり受け止めているんだから。

よりによって、ぶっさんが、私がこの世で一番好きな俳優とうりふたつなのがいけない。
今、テンションめちゃくちゃ低くて。
もうちょっとしたら復活するので、続きを書こうと思う。