『花よりもなほ』三回目行って来ました

三回目、行ってきた。前回との画期的な違いは、レイトショーではなかったせいだろうか、観客がそこそこ入っていて、かつ平均年齢が高かった。そして、笑うところでみんな笑っていたところだ。前は誰も笑わないから、私もついつい遠慮してしまった。何だかほっとして、私もリラックスして見る事ができたのだった。孫ちゃんの「糞と餅」がらみの台詞の流れなんて、前はどうして笑わないのか不思議だったもの。

「笑う」で思い出したけれど、宗左の実家では、叔父さんの庄三郎以外の人物は、ただ一人も笑うことがなかったのを思い出した。宗左の優しさを「甘い」と弟は片付けてしまう。つまらないいさかいを仕掛けたのは父親だということは皆知っている。この事件によって金沢十兵衛が無くした物が甚大だったことだって知っている。だけど、まだ仇討ちは済んでいないとみな思っている。このバランスの壊れた世界は何だろう。こういうところが武家社会らしさということだろうか。どうも宗左の父親は、とんでもない堅物だったようだし。長屋の人たちの自然で生き生きした表情と対比させると、やっぱりこっちの方が人間らしいね、と思う。けれど、生活の苦しみという点では、町人の暮らしは武士の生活よりずっと切羽詰ったものだ。これをひとつひとつ丁寧に描いていくところが、素晴らしかった。支配階級の武士と、被支配階級の百姓・町人のこの構図を、肌に感じるような生活をしていて、宗左はどう考えるようになったのだろう。

宗左の仇討ちに対する想いは、父親に対する深い愛情と、その人を失った絶望と悲しみだ。自分が、父親の生前、「駄目息子」だったことの贖罪の気持ちもある。武士の威信とか、そういうこととは少し違うような気がする。これが、自分だけが受けた被害だったら、宗左は許すこともできたのだと思う。実際、そで吉にぼこぼにされても、恨まないような人だし。
報復で思い出した。『カラマーゾフの兄弟』に、次男のイワンが、三男の敬虔なクリスチャンの弟であるアレクセイに、議論をふっかけるくだりがある。キリスト教は許すことを強く求める。しかし、酷い目に合って死んだ者たちの苦しみを、他の人間が何の権利があって、代わって「許す」ことができるのか、というのである。「許し」のジレンマはここに集約している。大切な人を失った「残された者」の恨みと、死んだ者自身の恨みは、まったく別々のものだ。死んでしまった者たちの「思い」はその命ともに消えてなくなる。もう許すも許さないもない。だから、恨みの代行というのは、本当は残った者の強い感情が投影されたものだ。・・・・・・仇討ちのメンタルな土台はこういうところだろうか。だけど、武家社会ではなぜそれがシステム化されたかというと、彼らが軍人だからだ。戦うことが存在理由だから、やられっぱなしで生きていくわけにはいかないんだろう。この辺りが、やっぱり国家間の報復合戦の構図とタブってしまう。

サイドストーリーに赤穂浪士が出てくるが、それも、そんな武家社会の美学をあらわしている。重鎮以外はみんな小物だ。無理もない気がする。こんなことになるまでは、みんなサラリーマンだったのだから。人を斬ったことのある人間は、確か二人ぐらいしかいなかった、と聞いている。戦がないから、そんなものかも。それが武家社会のシステムに取り込まれて、ここまで来てしまった・・・・・・。そんな人たちが、貞さんに「ただの卑怯者」とあっされ片付けられている。寝込みを襲って、隠居したじいさんを大勢で殺した・・・・・・私も同感だ。物事の本質を捉えれば、そういうことだ。それでも世論は、あの頃報復を望んでいた。復讐は、物語として「すかっ」とするのだ。私も覚えがある。

つづく