『花よりもなほ』二回目行って来た

最初に見た映画のイメージが次から次へと頭に鮮やかに飛来するので、どうやら本物みたい、と思い、レイトショーで二回目見てきた。

二回目で意味がわかったシーン。

そで吉が、川原で花を摘んでいたのは、子供たちを見ていて、おりょうさんと遊んだ頃のことを思い出していたから。そで吉が侍を憎むのも、おりょうが女郎になったのも、親を殺されたから。それまでは、貧しいながらも幸せだったんだろうなあ、と思う。笹舟が二艘、ひとつは流れに乗っていけたのに、ひとつは石に止められて、ふたつは離れ離れになってしまった。まるでそで吉とおりょうみたいに。

進坊が、宗左の家の前で一人遊びしていると、宗左の家の戸が開く。顔中あざだらけの宗左と目が合う。すると宗左が家の中に一度引っ込むんだけど……何をしているのかと思ったら、懐紙を懐に突っ込んで出かけてしまう。これは、ひょっとして人を斬るかも知れない、と思ったからなのだな。記憶を遡って、このシーンを思い出すのは無理だ。

雪の中をひとりで歩いている進坊の背中。進坊は、この時に、母親が自分についていた嘘がわかったから、眠れなかったんだと思う。

他にもいろいろ気になるところがあったので、今週末にまた見に行こうと思う。

さてさて、監督が、ある人から「残された者ばかりを描く。しかも父親がいないものばかり」と指摘されたとか。それでどうしても引っかかることがあるので、書いておく。
私の初恋は小学生の時で、その子は父親が死別か離別かは不明だけど、いなかった。安普請のアパートに母親と二人で住んでいた。
中学の時に好きだった人は、母親がちょっとわけありで……これはちょっと言いたくない。
大学の時に初めて付き合った人は、四人兄弟の末っ子で、彼が小1の時に、お父さんが奥さんと子供四人捨てて出て行ったのだそうだ。
一度目の結婚相手は、彼が中二の時に母親を癌でなくしている。
両親揃った唯一の例外が、今の夫なのである。
こう書くと「同情が恋に変化するタイプで」と誤解されるかも知れないけど、その人に惹かれる時点では、その人が片親だということをまったく知らない。どうしてそういう人ばかりに惹かれるのかはよくわからない。「そういう風にできている」としか言いようがない。岡田くんのファンになった時も、お父さんがいないことを知らなかった。そう言えば、百恵さんの時もだ。
是枝監督が描く「残された者」に惹かれる人の中には、私と同じたましい持った人がいるんだろうか。子供たちをはじめ、無垢な人々がとても愛しい。その中で、宗左が最初、とてもひとりぼっちに見えた。実家には彼が生きていく場所がもうない。第一に、弟の名前が宗右衛門だ。兄が左で、弟が右。これだけで、宗左の実家での立場がおのずとわかる。捨てるものを捨てて、やっと生きていく場所ができて、ひとりぼっちではなくなる。「花よりもなほ」は「そういう物語」なんだろうか、と思った。

眠い。
つづく