『ナルニア国物語』(ネタばれあり)

さてさて、ディズニーのファンタジー大作『ナルニア国物語』を見てきた。
結論から言うと、普通に楽しかった。
異世界物ファンタジーの『駄目パターン』がみじんもないのは、21世紀の映像技術のたまものだ。
原作で描かれた『ありえないもの』を、すべて見えるものにして見せてもらえる快感。
いい時代に生きているな、と思う。

洋服ダンスを抜けて、一面の雪の原の異世界へ、無垢なこころを持った末っ子のルーシーが、好奇心いっぱいに足を踏み出す。
そのシーンを見て、『となりのトトロ』で、四歳のメイが、庭で小トトロと中トトロを見つけて追いかけるシーンを連想した。
その瞬間私も子供になり、わくわくしながら未知の世界へ足を進める。
子供はこれだから危ないんだけど、危険と背中合わせのこの好奇心が、つねに未来への扉を開く鍵だ、というのも真実だ。
ずっと母親目線でいたら、物語を楽しめないに違いない。
母親としての目線は、長女のスーザンがすべて代わってやってくれるので、この点はとても安心できるものだった。
しかし、客観的に見ると母親目線というのは、徹底的に現実的なもののようだ。少しつまらない。
反抗期の子供の、矛盾したものをいくつも抱え込んだようなこころを、次男のエドマンドが引き受けてくれる。
そして、妹弟を守る責任感と自信のなさの間で揺れる、大人になる一歩手前の子供を長男ピーターが全部引き受けてくれる。
ピーターとスーザンが時々やる言い争いなどは、男女のものの考え方の違いから来る争いの典型を見るようだ。
ピーターとエドマンドの諍いや和解などは、父と息子の対立の原型のようだ。

そんな『子供四態』とでも言うべき少年少女四人が、異世界ナルニア国の救世主として、言い伝えとなっていた、というのが意味深い。
アダムの息子ふたりと、イブの娘ふたり、というのは、ナルニア国がキリスト教の思想をベースにしていることを、すでに示している。
当然、王であるアスランの受難と復活は、イエス・キリストのそれを暗示している。
すべてはアスランが作った世界なのだから、悪である白い魔女も、その一味の悪党たちも、アスランの創造物であるはずだ。
アスランが完璧なのに、なぜ作られた世界は常にどこかしらまずいところがあるのだろう。
なにかがおかしい。途中でそう思った。
これなどは、一神教を信じる人にとっても、決して避けて通れない疑問らしい。
それぞれに宿る『こころ』だけは、創造主ですら制御できない、自律的なものであることを認めざるを得なくなる。
作者ルイスがこれを書いた背景には、ふたつの世界大戦があったことは間違いない。
否、この大戦に影響されることのなかったアーチストは一人もいなかったろう。
それは、それぞれの「正しさ」を掲げ合っての戦いだった。
善と悪との戦闘シーン。
自らの善を信じ、相手の悪を信じ、正義を信じて戦ったのに、いつのまにか自分に悪のレッテルが貼られている・・・・・・その不条理さは、とりあえずこの物語にはない。
その当たりが、最近見続けてきた映画の数々に比べて、少し物足りなく思った。
ただ、敵の白い魔女が、ある種の美を体現しているところが、かなり気に入った。
何となく、兄弟たちが疎開先として預けられた家の家政婦さんみたいな、冷たい規律みたいなものを感じたからだ。
子供の中の奔放さを『悪』とみなして、それを調教することを教育と考える、イギリス中流社会のそれだ。
子供を嫌悪しながら、実は子供がこわいのだ。

さて、『異世界物』のお話にも、いくつかパターンがあるようだ。
現実世界とはまったく違う世界が、そもそものお話のフィールドであるのがひとつ。
未来物や宇宙物のSFもそうだし、『指輪物語』や、夏に公開されるアニメの『ゲド戦記』などもそれに入る。
日常があって、それとはまったく違う次元の場所があって、主人公がそこを行き来するものがひとつ。
オズの魔法使い』『不思議の国のアリス』『果てしない物語』など。
ナルニア国物語』は、そのカテゴリーに入る。
子供向けの本だからだろうか、『実は子供の見た夢』と解釈されそうなものが多い。
そこには、子供をどう評価するかで、物語の価値をふたつに分岐させてしまう「仕掛け」がある。
お話のラスト。
無事、クローゼットから出てきた兄弟たち。
老教授が「中で何をしていたのかね」と聞く。
ピーターが「言っても信じませんよ」と言う。
とてもリーダーたるピーターらしい台詞。
それに対する老教授の台詞は「Try me(試してごらん)」だった。
このお話が、戦争の傷跡がまだ残る1950年に書かれたことを思うと、
子供心を大切にする、というこの展開は、とても先駆的なものだったと感じる。