『CATS』

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10日土曜日、娘と二人で、劇団四季ミュージカル「CATS」を見てきた。JR五反田の駅を出ると、ビルの外壁に猫人間たちの顔が集まった大きなポスターが。そこから十分ほど歩くと、いきなり「CATS」の大きな文字が現れる。そこがキャッツシアターだ。ロビーで小腹を満たした後、客席に入り、劇場の内部を見学する。なるほど、ここはゴミ捨て場の底だ。汚れた靴、折れたギター、壊れた電熱器、片一方だけの潜水用ひれ、ペットボトル、エトセトラ。ただし、それらがすべてとても大きい。「自分が小さく……猫になったみたい」と娘がはしゃぐ脇で、私は「どうやって作ったんだろう」と仔細に調べる。軽い職業病だ。開演までの三十分をまったく退屈せずに過ごす。……その内、どこからか猫が音もなくやってくる。舞台が回転する……。

「観客に次の展開の予測を簡単にさせない」のが、このミュージカルのいいところだ。猫のきまぐれに辛抱強く付き合うことの出来る人、むしろそのきまぐれこそを猫の尊い性質と感じて慈しむことができる人なら、こたえられない展開だ。猫は、どこまでいっても謎を残した存在だからいいのだ。そして、いつも一人でいることが基本の猫たちが集まる猫集会の晩、それはきっとこんな様子なのに違いない。ミュージカルが創造される以前から、ずっとそう思ってきた。舞台の猫たちは、今夜、分からず屋の人間たちに珍しくも親切心を起こして、自分たちを少し擬人化して説明してくれたのだ。

CATSといえば、スタートしたばかりの頃、新宿の仮設テントの舞台で見たことがある。あまりに強烈に記憶に残っているせいで、そんなに昔のことだとは感じていなかったのだけど、計算してみたら24年前だった。その間にミュージカルとしては確実に進化していると思う。例えば群舞の切れ。ソロでは一番の見せ場、ミストフェリーズの連続ターンを含むダンス。歌では、グリザベラの歌う名曲「メモリー」。猫たちが、人間よりずっと重力の縛りから自由な存在であることを、しっかりと確認させてくれた。

私の一番のお気に入り、ラム・タム・タガーだが、これぞ私が最も猫らしいと感じる猫だ。人間の分類で言えば、いかれたロックンローラー。以前は真っ白なオス猫だったが、黒地に茶まじりの猫になっている。それでもあの迷いなき自由きままさは、まさしくラム・タム・タガーだ。満足。

ところで、変な話だけど、年老いて嫌われ者の娼婦猫グリザベラを見ていると、どうも嫌われ松子を連想してしまう。そう思い出したら、ますます松子がグリザベラをサンプリングしているように思えてきた。若い頃はいい女で浮名を流し、だけど年老いてしまった今ではすっかり太って、心を病んでいて、髪がぼさぼさで、服もぼろぼろで、誰からも疎まれて、だけど人の愛情を求めていて、最後に光に向かって昇天していく、と。映画の方についてはいろいろ屈折した感情を未だに持ってはいるけれど、猫が「今を生きる」生き物である以上、美しくて打算のない女性に似てしまうのはやむをえない。だからこそ、ブロンズの鐘のような、胸打たれる歌声を持っている。

とりとめもなく書いたけれど、見終わってまたすぐに見たくなってしまった。娘も同じ気持ちなので、また行こうと思う。