『ゲド戦記』余談だけど、『こころのうた』

ちょっと思い出した。
私の『詩』の中にある『森の中の少年へ』は、谷山浩子さんの『まっくら森のうた』に影響されて、書いた。これは、「光の中で見えないものが、闇の中で浮かんで見える」ではじまる、大好きな歌である。ちなみに私の詩の中の「少年」のモデルは、当時17歳だった我がアイドルである。
その谷山浩子さんの書かれた本が、我が家に一冊だけあって、それは意外にもゲームの本だ。その中の『ウィザードリー』の項で、思考がどんどんメタに階段を上っていくのをさりげなく文の羅列で表現しているくだりがある。「これがゲームとどう関係あるの?」と読んだ人は思うかも知れない。だけど、これが大有りのこんこんちきなんである。『ウィザードリー』のダンジョンを下っていく、ということは、つまり「こういうこと」だ。これはゲームをやった人なら理屈抜きにわかる。やったことの無い人にはわからない。そういう類のことだ。このダンジョンというものが、ル・グウィンの発明品であってもなくても、たぶん、物語の中にそのアイテムを持ち込んだ目的は、このゲームと同じだろうと思う。

テルーが歌う歌は、私が何度も口にする「主観は交換できない」ということと、もしかして同じ意味を持っているのかも知れない。交換できないから、人のこころはぽつんとしていて、ひとつひとつ本当はとても寂しいんだ、と。だとしたら、私がずっと思ってきたこととシンクロ率がとても高いと言える。こんなことばかり考えるのが、ファンタジー好きの習性、という事情を差っぴいたとしても。

それからもうひとつ。予告編2の港のシーンだけど、これを見てブリューゲルの『イカロスの失墜』を瞬時に連想した。あれは、人々の、他人に対する共感能力のすさまじいまでの欠落を描ききっていると思う。ブリューゲルの絵は、一見穏やかで暖かく見えて、見ている内にぞわぞわと怖くなって、息苦しいような救いのない気持ちになってくる。吾朗監督がブリューゲルについて語られたこと、同感だ。あの絵の「感じ」を取り込めるなんて、私の目には神業としか見えない。

とりとめなく書いたけれど、この物語の魅力は、奥深いものだと思う。