『ジャックと豆の木』

ついこの間、映画館で見たばかりの感のある『ブラザーズ・グリム』がDVDになったらしい。この映画の中には、よく知られているおなじみの童話がいくつも隠れている。『ジャックと豆の木』は、グリム兄弟が少年だった頃のエピソードになっている。妹が病気になったため、牛を売って薬を買おうとしたところ、弟がただの豆を『魔法の豆』だとつかまされて、牛を騙し取られてしまう。弟は、現実の世界の中で夢を信じ、兄は信じないけれど利用する。そんな長じてからの二人のスタンスの違いが表現されているエピソードだ。
物語分析の第一回は、この愛すべき冒険物語からはじめることにする。


ジャックと豆の木』というのは、異世界物の中でも、実にユニークで魅力的な物語だと思う。まず、その異世界は、『天界』である。神や天使や竜などの聖なるものが住む場所とされる。人間界の苦しみ悲しみから切り離された、誰もが憧れる世界だ。羽があるなら、飛んでもいけるだろう。だけど羽のない身の人間となれば、どうやってそこにいくか。移動手段そのものに独特の魅力があるのが、この天界旅行のお話の特徴だ。

高い木に登る手がある。高い山に登る手もある。高い建造物を建てるという手もある。だけど、どうしても高さにすぐに限界がきてしまう。天はどんなに高く昇っても、いつもずっと高いところにありそうだ。
飛行の方法を見つける、という手がある。墜落死の危険と常に隣り合わせだ。

さて、主人公ジャックは、魔法の豆の木を昇って天界に行く。一晩で植物が巨大に成長する、というと、旧約聖書の『ヨナ書』に出てくる、神がヨナの日よけに与えたトウゴマを思い出す。植物の急成長に、ジャックは天の恵みを確信する。こういうシチュエーションで、母親の制止を聞く少年はいない。
しかし、そこに住んでいるのは、よりによって人食いの巨人だった。

ところで、巨人と言えば、以前、茶色の背広を着た大男に追いかけられる、という夢を見た。スケールさえ小さければ、バブル期によくいた、イタリア製のスーツを遊び着に着こなしていたような若い男性に過ぎない。それが、どう見ても、普通の人間には絶対にない身長なのである。家の近所の道を歩いていると、工場の錆付いた門扉に、動物園のサルのようにはりついていた。私を見つけると、にやっと残忍な笑いを浮かべるので、気持ち悪くなって走って通り過ぎようとしたら、何と、門を開けて追いかけてくるではないか。もう、必死で走った。そして、夢の中で走るとき、いつもそうであるように、足が重い。結局その夢はそこまでで、後は覚えていない。

もともと、「茶色の服」にはいろいろあって良い印象がない。もともと、ベージュ、黄、黄緑、オレンジと並んで、着ると、青い肌がますます汚く見えて似合わないので、絶対に着ない色だ。小学生だった頃、いつも茶色の服ばかり着ている同級生がわけもなく嫌だったが、思い出すと、それは「茶色の服」のためだった、と今はっきりわかる。だから、その夢は、たまたま男性と茶色の服、という私の潜在的な恐怖対象がふたつ組合わさったものなんだろうと思う。

問題は、その夢の男の人の大きさだ。普段、絶対に接することのない身長の人間・・・・・・今までずっと謎だったけれど、これってひょっとして、子供から見た大人の姿なんじゃないか、と気がついた。

そんなことを考えると、ジャックが天で出会った巨人とは、人間が子供の頃に刷り込まれ、自分でも忘れてしまっている、大人に対する恐怖心が形をとったものではないだろうか。子供にとって大人とは、多くは親のことだ。この巨人はまさしく父親のイメージだ。
確か、その人食いの巨人の妻が、うまくごまかしてジャックを逃がしてくれる。暴力的でワンマンな父親がいる家では、母親はこうやって夫をだましだましして、何とか子供を守って育てる。
ジャックが地上に逃げ帰った後、巨人が豆の木をつたって追いかけてくる。ジャックは、豆の木を切り倒して巨人をやっつける。男の子はいずれ、父親を乗り越えて大人になっていく……そんな、ありきたりだけど、ちょっとかっこいいフレーズで締めくくりたくなる。

異世界旅行とは、人間の脳内旅行である……そう定義づけてみる。それが真実かどうかは置いといて、そう定義すると、それぞれの物事が、実生活の何を示しているか、すっきりと説明がついたりする。しかし、ヨハネの黙示録も、歴史上の何かを予言したものだとして「すっきりとした」説明をしたものが無数にあるそうなので、そんな事情を見ると、「定義」自体は正しいかどうか、結論づけられない気がする。しかし「すっきり」とできると、新しい創造のヒントにできる。