はじめに

物語、特に童話にからめていろんなことを書きたくて、こんなコーナーを作ってみた。
『キャラクター小説の作り方』なる本に、童話は物語の構想を得る大切なアイテム、みたいなことが書かれていて、以前に自分がやっていたことなので、大いに興味をそそられた。
童話研究に関して言えば『誰が「赤ずきん」を解放したか』などの名著がある。それを読んで、それまでまったくなかった視点が刺激になって、自分でもいろいろ書きたくなった。十五年位前、その影響で「七匹のこやぎ」「白雪姫」「シンデレラ」「赤ずきん」と立て続けに分析した文をパソコン通信掲示板に書いてみた。自分でもびっくりするほど書けて、他では得られない快感を感じたものだ。
それをやった上に、「図式」を作って物語をつくる、という逆もやってみた。時代劇のごく短い短編だった。
あれきり、物語を自分で作る修行を長い間してこなかった。シナリオという手がある、と気がついて、勉強を再開したのが三年前。そして、コンプリートしたのがついこの間。これを機会に、自分なりにこつこつ研究するくせをつけようと思う。

ところで、パソコン通信掲示板に書いたものは消失したが、ホームページに『オズの魔法使い』について書いたものは残っていた。資料として、ここに書いておく。

自己評価について      1999.9.12

今回は、少しストレートな主題で書いてみたいと思う。某ページに、散々、このキーワードを書き散らしておきながら、それについての説明的なものを一切書いてこなかったのに気がついた、ということもあって、なるべく早く書こうとは思っていた。じつを言うと、パソコン通信をしていた時に、相当な長文で、「自己評価の低い人間とは」というタイトルで文章を書いたことがある。エッセイというより、論文っぽい文体で、いろいろな本や映画やコミックなどを例に引きながら、自己評価が低いということの現象、それが社会に与える悪影響について、かなり熱くなって書いた。だが想像してみて欲しい。「自己評価が低い」というのは、夫の、結婚当初からの私に対する一貫した評価なのである。すなわち、自己評価が低い人間をポジティブに語るということは、ひどく回りくどいやり方で、自画自賛していることになってしまう。何が苦痛かといって、これほど苦痛なことが他にあるだろうか。最初はほとんど克己心で、最後はマゾヒスティックな快感すら覚えつつ書き上げた。それが、ネットの縮小でボードごと消去となったのは、今年に入ってからのことだそうで、あれにかけたエネルギーを思うと、残念なのが半分、ほっとしたのが半分といったところなのである。

さて、そのエッセイを書いたときに引用したことで、我ながら秀逸だと思ったのは、童話「オズの魔法使い」の登場人物が、自己評価の低い人間をステロタイブとして描いている、という視点だった。かかしは頭脳、ブリキのきこりは心、ライオンは勇気をそれぞれ欲しがってオズへの道をいく。だが、読み進む読者のうち幾人かはだんだんと気がつく。彼らは、自分にすでにあるものを「ない」と思い、それを求めているのだということを。的確な判断力で、バーティを支え続けた者が、どうして自分には頭脳がないなどと思うのか。うっかりカブトムシを踏み潰してしまった、と泣き出す者が、自分に心=感情がないなどと、どういう思考回路をしていれば思いこむことができるのか。ライオンは確かに臆病ではあるけれど、もともと(物語の中の)ライオンというものはジャングルの王で天敵がいないから、恐怖心というものが少ないのが普通だ。言うまでもないことだが、恐怖を知る者だけが、勇気の何たるかを知る。従って、臆病である=勇気がない、という前提に根本的に誤りがあるのだ。いざという時に、仲間を守って闘うことができるのだから、それで勇気など必要にして十分ではないか。

さて、オズの魔法使いは、魔法使いなどではなく、ただの詐欺師だった。だが、やはり詐欺師だけあって心理操作には長けている。一行の渇望しているものの性質をさっと見抜き、「ないと思っているけど、実はあるんだ。」と説いた後に、案の定「でも欲しいんです」という答えが返ってきたときに、心理的トリックを使って、彼らを満足させる。つまり「おまもり」のようなものをあげるのだ。そもそも「おまもり」というのは、その人がもともと持っている力を発現させ、上手に引き出してあげるための道具に過ぎない。いや、だからこそ、もともと持っていた力を封じこめていた者には特効薬のように効くこともある。しかし、それ自体に何かしらの力があるわけでもない。神秘や奇跡と呼ばれるものは、ほとんどの場合、人間の潜在的な力の深遠なることの投影なのだ。

ところが、この当たりが、ジュディ・ガーランド主演のミュージカル映画オズの魔法使い」になると、ずっと様子が違う。オズは、それぞれの者に、それぞれが欲しがっていたものが「ある」ことを示す、架空の権威のしるしを与える。かかしには大学の卒業証書、きこりには市民の記念品、ライオンには勲章。しかも、世の中には、そういう「しるし」を持っている者が、必ずしもそれらが保証するほどの中身など持っていないことを説きながら、渡していく。詐欺師にしては良心的過ぎるやり方だと思うが、すべては結果オーライということになる。映画作りをしていた製作者は、この「内なるものを探す旅」という、物語の本質を、大変深く理解していたのだと思う。原作では、主人公のドロシーにとって、「家に帰りたい」というのは、非常に現実的な願望だったわけだが、映画では、むしろ「内なるホームを求める旅」というテーマ性が強くなっている。原作に記述された「灰色のカンザス」と色彩に溢れ返ったオズの国の対比を、心象風景として捉えなおしている。「すべてはものの見方によって変わる」というテーゼを一歩進めたのだと言えよう。

さらにこれがオール黒人キャストのミュージカル「ウィズ」ともなると、もっと明確になっていて、主人公ドロシーが迷い込む異世界は、ドロシーが住んでいたニューヨーク以外のどこでもない。ニューヨーク中にペンキをぶちまけて作り上げたこの映画、私のお気に入りの映画のひとつで、LDで持っている。かかし役で、二十歳になるやならずのマイケル・ジャクソンが出演していて、それはそれは素晴らしいダンスを披露してくれる。このお話では、かかしもブリキ男もライオンも、すでに「おまもり」も「しるし」も必要としない。旅の果てにおいて、「ないと思って欲しがっていたもの、みんな持っているじゃないの」というドロシーの最後の言葉で、すべて満ち足りる。ドロシーがこのお話では成熟したコトバの数々を持った、大人の女性だから、という原作との相違点が、ここで生きている。

この童話は、作者ボームがどの程度意識して、巷にあふれる自己評価の低い人間の目を覚まさせるために、これを書いたのかは定かではない。あるいは、まったく意識していなかった可能性もある。童話作家ミヒャエル・エンデの用いた、自分の無意識を掘り起こしつつ書き、その上に自分の中のものに意味付けを積み上げて行く、シュールレアリズム的な手法を、ボームも用いたのかもしれない。

自己評価が、いかなる理由で低くなるか、それは私にもまだわからない。それがわからない以上、どうすれば高くなるのか、あるいは、どうしたら低くなるのを防げるか、確実なことは言えない。ただ、自分は自己評価の低いタイプの人間なのだと自覚すること、すべてはここから始まるのだということは言えるだろう。さらに、人間は、自分以外の人間がもたらす基準を絶対座標だと考えなくてはいけない理由など、どこにもないのだということ。

さてさて、このテーマは、以前の経験からしていって、一筋縄では行かない。従って、ある程度まとまった文章ができるほど考えが煮詰まったら、その都度書いていこうと思う。

できれば、映画感想文と同じく、週一のペースで、と思っている。がんばろう。