『サウンド・オブ・サンダー』

レイ・ブラッドベリがまだ生きていることを、不覚にも知らなかった。
ブラッドベリ原作、名作SF映画華氏451』を見たのは子供の頃だった。
本を読む人間への迫害は、その当時ですらあちこちに兆しを見せていたから、子供心に、この暗黒の未来はリアルだと感じたものだ。
その時間の感覚で、ものすごく古い時代の人だと勘違いしていた。
調べると確かに、原作は私が生まれる四年前に書かれている。
まだ、テレビですら各家庭に普及していない時代に、映像文化が文字文化を迫害することを予測するなんて、恐ろしいほどの感性だ。
あと、殺人的なモータリーゼーションの発達も原作には描かれている。
そうそう。原作の『華氏451』に、耳に何か詰めて、音楽か何か聴いている女性が出てくる。
ブラッドベリがこの小説を書いた頃には、ウォークマンiPodもなかった。
この短い小説に描かれている未来は、驚くべきことにほぼ実現した、ということになる。
だけど、ひとつ、インターネットの発達だけは予測の内になかったようだ。
個々人が発信する言葉によって、文字文化はまた独自の進化をしている。

さて、この『サウンド・オブ・サンダー』は、かなり短い短編が原作だ。
原作は、自然の厳しさを突きつけられるような、取り返しのつかないバッド・エンディングだと感じた。
原作にはない設定を山ほど盛り込んであるので、あの短編が原作だと言われても、「違うでしょう」といいたくなる。
昨今の画像技術の発達から見ると、どうしてもCGに対しては点が辛くなってしまうけれど、それ以上に文句を言いたくなってしまうのは、タイムパラドックスに対する解釈と処理が甘く感じられてしまうところだ。
6500万年前の、ほんのちょっとしたこと・・・・・・一匹の虫を殺してしまったり・・・・・・でも、進化に重大な違いをもたらす・・・・・・これが、原作での強烈なメッセージだった。
だから、その影響の現れ方の表現が、原作のメッセージと違ってしまう気がするのである。
ブラッドベリーが根底に据えた、進化についてのこの発想が、今の時代、とても大切で、すべての人に共有されるべきものだと思うので、丁寧に扱って欲しかったな、と残念に思う。
タイム・パラドックスを合理的に処理するSF上のテクニックは『パラレル・ワールド』しかないと思うのだけど、それには救いというものが、あるようでない。
とりあえず、この映画は、ハッピーエンドで終わる。
そのハッピーエンドに何かもやもやした不満を感じてしまう。
絶対にぬぐえない矛盾への「気持ち悪さ」というか。
そんなことを思うと、同じくパラドックスを扱っても『ターミネーター』や『ペイ・チェック』は秀逸だった、と思う。

なんだか、不満ばかり書いてしまったけれど。