『言葉にしなきゃダメですか』05/12/11 中島義道さん

さて、初めての哲学者の方のゲスト出演ということで、お題も気に入ったし、かなり期待していたのだけど、残念ながら失望してしまった。
岡田くんが、私の失望にさらに追い討ちをかけたらとどめだな、と思ったけれど、最後のコメントでその心配を完全に打ち消してくれたので、感謝している。
どういう点に失望したかというと、個々が自分の人生を丁寧に生きていく成熟した社会は、先生のやっていることの延長線上にはおそらく現れないと思うからだ。
先生は、いつもご自分がやっているような口調で、電車でいきなり知らない人間から注意されて、素直に聞くような人だと思えないのだが、それは私の偏見というものだろうか。
いや、岡田くんが「僕もV6の中で……」と話し出したときに、その話をさえぎって、その岡田くんの話を完全に無視してご自分の意見を述べられた時点で、人の話をじっくり聞くタイプの人ではないことだけはわかった。
人の話を聞かない人が、人に自分の話を聞かせることにこれだけ熱心なのは、正直見苦しく感じる。
それと、『狂人』という言葉を、脳科学の研究が進んだ現在、一般人ならともかく、仮にも哲学者が差別的に使うのは、間違っていると思う。また『普通の人』という言葉の使い方に、今までのゲストの方たちには感じられなかった妙な選民意識を感じる。

ところで、茂木先生が、著作の中で、人間関係の中で脳を発達させる事例に、電車で身重の女性に席を替わってあげるように座っている若者に「プライドを傷つけないように」どう話したらいいか、と挙げていた。確かに、若者のプライドを傷つけることを考慮しなければ、中島先生のようにただ「替われ」といえば済むけれど、じゃあ、一体そもそも何のために替わることが必要なのか、何を実現したいのかを考えれば、やっぱり若者に屈辱的な思いをそこでさせるのはまずい。それは、自分が若者の立場に立って考えればわかることだ。

思うに、人間が、他者と自分を並列に捉える能力には、とてつもない個人差がある。であればこそ、人の世は理不尽な加害に満ちており、「人の立場に立って考えてみなさい」という言葉が道徳として存在する。「傷つくことが怖くないから、傷つけることも怖くない」などというのは詭弁だ。自分が傷つくことと、人を傷つけることが、並列に捉えられていないから、「他人が傷つくこと」が、その人の世界では「存在しない」だけなのではなかろうか。言葉だけで「他人が傷つく」と言ってみるだけで。自分は我慢強いくせに、人が傷ついているのを自分の痛みとして感受する人間だって、老若男女関係なく、世の中たくさんいるのだ。

……といって、きつい事をあえて言わないといけない場面というのも、たくさんあるのは否定しない。たとえば、自分の子供や学生や部下を叱れないのは、育てることを放棄しているのと同じだ。だけど、育てるために言わなきゃいけないことは「きついこと」だけではない。すべてはバランス……岡田くんの言うとおりだと思う。

それにしても、哲学の本質的な部分については、何一つ語られなかった、ということだけは、忘れちゃいけないと思う。