『美しい日本語ってなんですか』 05/05/15 橋本治さん

-5/15放送
橋本治 さん
テーマ:「美しい日本語ってなんですか」
「美しい日本語」と書いてあるのを見た瞬間、美しい語感を持った日本語のことをダイレクトに話すんだと思い込んでいた。「こころってなんですか?」の時みたいに「いきなり核心」という風に。響きということであれば、日本語の場合、英語と違って、子音と母音が音ひとつひとつにくっついてできている。その日本語の響きが美しく聞こえる為には、どんな物理的条件が必要で……なんて、私が想像した展開は、思えば理系的発想だったかも知れない。文学者がそういう流れにもっていくのも、よく考えれば不自然だ。話が拡散して終わっちゃうかな、と思っていたら、最後には、美しい語感、美しい響き、論理的に間違いのない表現、というところに自然に落ち着いていった。しかし、岡田くんは、どちらかというと、理系の方の話を面白がって聞く傾向がある気がする。
その岡田くんが、美しい日本語の話の取っ掛かりとして、敬語をまな板にのせて出してきたのは、早くに社会に出て仕事をしている人らしい発想だったろうか。もちろん、その「響き」の美しさの体験の蓄積で、日本語における敬語も体系化された、という見方もできる。それは「お約束」だから、知っているか知らないか、という問題に最後はなってしまう。以前、『学校へ行こう!』で『マナーの猫』なるコーナーがあって、マナーというものが、美しく理にかなった振る舞いに対して足し算で評価するものではなく、体系化されてしまったものに対して、それを知らない者を引き算で批判するものになっている、という事情を明らかにしていた。その点は、社会に対する深い洞察を持った作家の方らしいビターな切り口で,敬語と言うものが、「美しいかどうか」なんて問題とはまったく別次元の「面倒くさい」ものだと指摘されるのは、意味深い。聞き手の聞きたいことを察して答えてあげる親切心のない方だということは、よくわかった(笑)。そういう人は嫌いではない。けれど、岡田くんには少しやりづらくて手強かったかも知れない。
ところで、「意味を知ると、美しいとか思わない」という橋本さんの和歌についての指摘だけど、様式のなかにパッケージした言葉から、読み手が味わう感情が詩という文学の本質だから、わびしい風景を美しい響きの言葉で表現した和歌の「意味」を「知る」というのは、訳というものの限界を示しただけで、「だから古い日本語が美しいわけではない」という結論には結びつかないと思う。「訳したら、厳密には意味は違う」というのは、翻訳などの常識だという。例えば、現代の日本語においてすら、セックスを表す言葉はたくさんある。他のどんな言葉よりも豊富にあるような気がする。どれを使っても意味が同じ……かというと、話者が意味以外に表しているものは違ってくる。ニュアンスの微妙な違いを、言葉に敏感な人は捉えるだろう。また、この微妙なニュアンスを楽しめる豊かさを、日本語という言語は持っている。それは、日本の上流階級において文学が基礎教養だった事情が大きいと思う。だから、この点は異議あり。「物は言い様」ということである。言葉は慣れるもの、というのは同感。自分の言葉でしゃべらないと、美しい言葉も美しく聞こえない、という、私が常々感じていたことと重なって興味深かった。