「流浪の月」4回目とシナリオブック

「流浪の月」は、私の行きつけの映画館でも1日1回の上映となりました。間に「シン・ウルトラマン」や「冬薔薇」などの視聴も混ぜながら、今日まで4回観ました。そして、数日前に書店で新刊のシナリオブックを買い、ひと息に読みました。巻末の監督と原作者の対談にたくさん気づきをもらったので、もう一回映画館で見ても良いかな、と思っています。

その上で、今朝、しみじみと考えたことがあります。私が若かった頃には「毒親」という概念はこの世に存在しなかったことを、です。かと言って、子供の害になる親が今より少なかったわけではなく、今なら虐待と認識されるような事があっても、大ごとにしなかっただけだと思います。そして、子どもに対して「親はみんな子供を愛している」と諭すのがパターン化していました。

そんな事を思い出すと、今日「毒親」なる言葉が発明され、流通しているのには、感慨深いものがあります。「親は必ずしも子を愛さない」のは、多くの哺乳類の観察や実験などで報告される事象です。親の愛は時として壊れるのです。人間とて例外ではなく、結果愛情に飢えている者が多数いることが、やっと社会常識になったと感じます。

「流浪の月」の主要な登場人物たちは、総じて母親の愛情に飢えています。どれも、本人には責任のないことです。かと言って、親に一方的に非があるとも思えません。それは親か子のどっちかと言うより、「間にあるもの」の問題じゃないかと最近思います。子の立場でそれが腑に落ちることはなかなか無いでしょう。それでも、更紗と文のように親子以上の絆が生まれる「他人」と巡り合う可能性が残されているのが救いです。「流浪の月」は、そんな、更紗と文の救いの物語ではありますが、同時に亮と谷にとっては、去っていく恋人の真実も知ることなく取り残される残酷物語でもあるのですね。

私は、原作→映画4回→シナリオの順で物語を味わった訳ですが、作り手お二人の言葉を拝読して、受け手としてここまでしてもなお取りこぼしていた要素があるのを感じたし、初見で直観した事が、意外に的を射ていたのも感じました。私は「あらしのよるに」の主人公2人を連想しましたが、凪良さんが更紗と文が「世界を捨ててしまった」と表現していらして、ああ、やっぱり2人の救いは、ハッピーエンドの救いではないという解釈で間違いなかったんだと思いました。

ところで、3回目視聴の前に「母親とは」なる視点で見ると決めていました。登場人物たちの母親喪失は共通でも、そこからの発展形がひどく異なります。母親としては存在するのに、自分の存在を肯定してもらえない文が、あの寒々しい離れ小屋に象徴されているようです。息子の病気を「母親である私のせい?」と、いう問題に変換するのはすごいと思いました。

何かあれば、寄ってたかって母親をバッシングして追い詰める、そんな社会で自己防衛的になるのは、普通のことだと思います。母親と文の人生のために、本当にどうすれば良かったのでしょう。そして、そんな重いものを抱えた文が、どうしてそこまで優しいのでしょう。

優しいと言えば、どちらかというと我儘な更紗も、不思議な優しさを持った人ではあります。自らが母性的な殻を被って、喪失を埋めたのでしょうか。女の子すべてがそうではないでしょうけど、子供の内から母性的な優しさを持った子は多いかも知れません。産む性であることは変えられませんから。

自分語りになりますが、最初の離婚で家を飛び出した後、起きている間は努めてフラットに過ごしていたものの、更紗のように眠ったまま泣いていることが度々ありました。再婚してからもしばらく。再婚相手はそれに気づいて起きることはありませんでしたが、娘は気がついて、私を起こさずずっと静かに頭を撫でてくれました。小学校に上がる前の子供の頃です。

優しい子だと感謝も評価もしますが、こういう親子の逆転は良くないかも、と悩みました。実際、娘自身も何度もうなされるほど、何かをたくさん抱えていましたから。誰が何を言おうと、DVする人間を終生許す気にはなれない理由です。

子供の更紗が眠ったまま泣いていると、そばで見守っていた文が「大丈夫?」とかける声で、自分のすべての時間を遡って清められた気がしました。本当に文の静かな声や落ち着いた物腰は良いです。他の人のようにずかずか入ってこないのに、静かに染みて来て、癒やされるのですね。

さて、そして亮くんはどうしてそこまでエゴイストなのかな? 亮くんの母親喪失は気の毒だと思いますが、母親がわりにしている更紗に対する態度が、中高生男子によくある「母親を馬鹿にしつつ依存する」という態度そのものです。相手を一個の人間として捉えられないのに、なぜ多くを求める権利があると思い込めるのでしょうか。こういう人と結婚すると、籍入れた途端に態度がいきなり悪くなり、子どもが生まれると幼児退行して最悪になり、地獄を見ます。ソースは私です。そういえば、元夫は中2で母親を病気でなくしています。彼の母親に私が似てるんだと口説かれました。今となっては、母親代わりに痛めつけてやろうと企んでいたとしか思えません。最初、甘えられて嬉しくて、恋はできないけど、この人とあったかい家庭を築くのは悪くないな、なんて考えた日の自分を、どやしつけてやりたくなります。

でも、亮くんの救いは、どこにあるのでしょう。自分は置いても幸せにしたい、と思う相手に出会って、ただひたすら相手が思った通りに生きる為のアシストに徹したら、救われるかも知れません。それは、恋ではないかも知れないですね。

親子の絆、男女の恋愛感情を元にした絆、家族を形成する元になるそれらの絆は、曖昧で、時には脆いものです。だから社会的な制約でそれにタガをはめるのでしょう。でも、更紗と文のような何ものも断ちがたい強い絆を自分も持てたら、なんて夢を見てしまいます。まずは「名前のない絆」を差別しないこと。ここから始めたいと思います。

今日はここまで