映画「流浪の月」2回目

一昨日、仕事帰りにレイトショーで、2回目の「流浪の月」を見てきました。横浜流星さんが「見どころは?」と聞かれて「文と更紗の関係性」と答えてらしたので、2度目はそこに気持ちを集中させてみました。

原作を読み、映画を2度見てみた上で、2人の関係を簡潔に表現するとしたら、それは「ソウルメイト」だと思います。ソウルメイトと言えば、いつぞや、アニメ「あらしのよるに」を見ていた時に、主人公たちの「故郷も家族も友達も、2人でいることの妨げになるなら全部捨てる。お互いさえあればいい」という関係に感銘を受けました。エンディングの後も2人の物語は続いていくのでしょうが、どう見ても楽な道ではなさそうです。それでも2人でいたいなんて。

文と更紗も、そんな、奇跡的な出会いをしたんだと思います。そう言えば「あらしのよるに」のメイとガブもそれぞれのコミュニティでは浮いた存在でした。文と更紗も同じです。浮き方はそれぞれ逆方向ですが、同じように、生きるのが辛そうです。そんな2人だから、出会えて本当に良かったね、と思うのですが、代償が最悪でした。まるで悲恋物のような追い詰められ感です。ここまでお互いを必要としながらも、それでも恋愛感情ではないんですね。

主演の広瀬すずさんと松坂桃李さん、そして子役の白鳥玉季さんが、愛すべきビジュアルをして、味わいのある表情や言葉で、2人のことを紡いでいるので、感情移入していって、2人目線となります。でもよく考えれば、マジョリティたる私は、むしろ亮くんや谷さんの立場に近いはずです。ここが物語のマジックです。

2回目となれば、初見ではやや悪役に見えていた2人の苦しみも、理解できました。愛する人が分からない、という苦悩は覚えがあります。自分にとって分かりやすい「理由」で間を埋めて理解しようとすればするほど、愛しているはずの相手との距離が離れていくなんて、残酷だし、哀しいです。ここまでは理解できました。

よく分からないのは、人々が文と更紗の関係を断罪する時の、「気持ち悪い」という感情です。直接の迷惑を被ってもいなくて、反社会的でもないのなら、他人のうちのことはどうでもいいじゃないですか。他にいくらでも面白いこと、ワクワクすること、あるのに、なぜ不愉快だと思うものにわざわざこだわり続けるのでしょう。

SNSに書き込むだけにとどまらず、大量のビラをばら撒いたり、カラースプレーで落書きしたりまでする情熱は、どこから湧いてくるのでしょう。

例えば、同性愛者をはじめとする性的少数者。歴史的には、古くから自然にあったものが、どこかの時代から異端となり、迫害と抵抗の歴史を刻むようになりました。そして、今では全人口の1割近く存在することがわかっています。血液型AB型や左利きと同じくらいいる上、他人に直接迷惑をかける事のない人たちを異端として扱うのは確かに不合理です。不完全ながらも、やっと世界はそこまでの理解と許容に至りました。

それでもなお多数派にとって、「主観的に」理解するのが困難なのは変わりません。理解できないものを人は恐れるものですが、その感情のひとつが「気持ち悪い」なのでしょう。でも、これって人類として「古い」感情でしょう。異質な物への悪感情は、新しい世界に向かう為には捨てなきゃならない物の筆頭です。そうやって進化してきたんだから、これからもそうすべきだし、そうすることに自然となっていくと思います。

実際、見てしまったら、文と更紗には、絶対に幸せでいて欲しいと願わずにいられないのだから。

今日はここまで。まだまだ続きます。

では