エッセイ>教えるということ その2

先日からの続き。例の少年YouTuberについて、教育を充分受けていない親によるホームスクールでは、学校のプロの教師に匹敵する教育効果は期待できない、という意見を読んで少し思ったことを。

「教える」ということは、人間の知の性質からしていって、思う以上に高度な技術が必要で、またそれに適性のある人間も絞られる、という主旨のことを書きました。その点、学校教師にかなう人はそうはいないというのは同意します。私には、その教える能力がない、ということも承知しているから、ホームスクールなど思いついたこともありません。

ところが、その適性を保証されているはずの教師ですが、専門の大学を出たとしても適性のない人もいることは、もう少し問題視されていい気がします。

その一例として。

私は、幼児期にお風呂で溺れて死にかけたせいで水が怖くて、なかなか泳げませんでした。夏は、家族で海に出かけると、私ひとり海に入るのを死に物狂いで抵抗するのが毎年の風物詩でした。恐怖でいっぱいになって、海の家のどこかにしがみついて泣き喚いたのを今でも覚えています。学校のプールの授業なんて、冗談じゃないって感じ。

ある時、小学校でそんなカナヅチの子だけを集めて、おじいちゃん先生が特別授業をしてくれました。精神論振り回す若い担任とは異なり、バタ足だけの練習、顔を水につける練習、立ったまま水を手で掻く練習、とやって、それをだんだん組み合わせていく、という非常に合理的な指導方法で、数回で全員を泳げるまでに導きました。あの飄々とした先生がいなかったら、生涯カナヅチのままだったかも知れません。水は相変わらず苦手ですが、泳げば死なない、という強固な回路が自分の中にあるのを感じます。

教えるって、こういうこと。進歩の方法論が頭に完璧に入っていて、それを確実に進めていく、この種の辛抱強さは、子どもを教育するのに必須の心構えだと思います。誰にでもできることだとは思えません。事実、泳げない子どもを性格に欠陥があると罵る以外何もしなかった担任も、プロの教師でした(しかも国立大卒)。半世紀を経て本当にこの辺りは改善されているのでしょうか。

適性のない教師とは、子供を進歩させることに興味が持てない人のことです。生まれつきの性格がそうだという人も、途中で興味がなくなった人もいるかも知れませんが、確実にいます。現行の大学システムは、ここのところをチェックできずに教職課程を取れば教師になれるように見えます。教師と生徒、どちらも幸せになれない流れだと思うのですが、どんなもんでしょう。

以前「青のSP」に絡めて書いたことですが、進歩が遅い子も、教師関係なく進歩していく子も、教師にはストレスでしかないと、現役の教師が証言しています。飛び級制度も、通信制の義務教育も難しい日本ですが、この辺りが解決できれば、もうちょっと何とかなるのではないでしょうか。素人考えですが。

 

まとまってませんが、今日はここまで。

では