エッセイ>教えるということ

今、義務教育を拒否している少年YouTuberが話題になっていますね。この子の人生に責任持てないから、あまり無責任なことは言いたくないんですが、社会実験を進んでやっている人、という目で見ています。

言ったら何ですが、私も勉強は好きなのに、目的のハッキリしないルールと教師とボス猿が苦手で、学校は苦痛でした。でも、学校で嫌な目にあうのと親に殴り殺されるのと天秤にかけて、よりマシな学校を選んでいたに過ぎません。学校楽しい、と言う人もいることだし、もうちょっと選択肢があれば救われたかも知れません。ここまでネット時代になったので、ひとつの試みとしてホームスクールは有りなのではないかと思います。

ただ、教える才能がある人が、それを磨いて子供たちを教える、という基本は崩さない方が良いと思っています。

 

先日、人にとって好きで得意な事は、多くの場合本人には自然で当たり前のことなので、それが苦手な人のことが想像しにくい、と書きました。あらゆるジャンルでこの現象が存在し、ここから発するトラブルも多いと思います。

大学の体育は男女混合でしたが、短距離走で「もっと真面目に走ってください」と言われて、カチンと来たことありました。これがわたしの大真面目な全力なんですね、どう見えたとしても。

これが長距離になると事態は一変して、サークルの合宿の朝のランニングで、私について来れる男子がいなかったりしました。「男に負けまい」としてムキになって走ったことにされましたが、いやいやいや。

こんな感じです。それでも、運動だと体格や年齢性別で分かりやすい違いがある分、まだお互いを許容しやすいのですが、問題は頭を使ってすることの方です。

学校の教科をはじめ、知的活動の得手不得手は、お互い相手がエイリアンではないかと疑わせるほど不可解なものです。「宇宙語」という常套句が飛び出すシーンとか。最悪、「難しい言葉で、マウントとってきた」あるいは「無知を装って、かまととぶった」とか誤解されたり? 単純に馬鹿呼ばわりとか?

他者の脳内の知的世界は基本未知です。理解そのものも脳がやってるので、余計ややこしくなります。ところが、こんな難しさを抱えているのにもかかわらず、「教育」は人間社会のキモです。個人にとっても重要ですが、国力の大切な源でもあります。

「はじこい」の春見先生は、かつての受験失敗体験を資源としているところが塾講師として特異な点です。何をするとまずいか身をもって知ってて、それを回避する方法を知っているのは強みですが、匡平くんと出会うまでは屈折していて相手に教えられない泥沼の中にいました。コミックは奥が深くて、牧瀬先生の参戦辺りから受験物としての面白さが加速します。

他者に何かを教えるのは、前述した知性の性質からしていって、相当高度な技術だと思います。「相手が分からないのが、どういう状態なのか」それを把握してはじめて教育はスタートすると思うからです。この真理は、普段あまり意識されていない気がします。電車の時刻がなぜ正確なのか、なぜ宅配が翌日届くのか、システムを意識しないのと同様に。

私は、どうも人に教えるのは得意でないようです。相手の状態を把握するのが苦手で。それだと未学習の他者に教えるのは不可能なんだと、わかって来ました。メタ認知が絶対に必要なんですね。その意味で「教える技術」を学んできたプロの教師は尊重されるべきだと思います。むしろ、教師が教えることに集中できない現行の学校システムの見直しが必要なのではないかと。

ところで、娘がピラティスのインストラクターをはじめて1年以上が過ぎました。なまじ運動のできる子なので、身体の動きの良くない人たちにどう教えるんだろうと思っていました。娘が言うには、動きには色々な要素があって、それぞれの人には得手不得手があるのですが、よくできているところや、前よりも向上したところを、こまめに褒めるのだそうです。すると、向上のスピードがぐんと上がって理想の動きに近づいていくのだとか。「褒めて伸ばす」は真理だったのですね。しかも、他者との比較ではなくて自己比というところがミソなのでしょう。良いことを聞きました。

 

まとまってませんが、今日はここまで。

では