エッセイ>311〜10年前のこと

昨日は、娘と2人で沈んだ気持ちのまま1日を過ごしていました。10年前のこの日のことをありありと思い出していました。

その日、仕事場にいた私は、ただ事ではない揺れの後、近所にあった自宅に戻って娘の無事を確認。その後、一緒に仕事していた女性が、友達とディズニーランドに行った中3の娘と連絡つかない、とパニックになっているので、スマホで唯一落ちていなかったTwitterの情報を拾いました。「DLが水没。これがホントのディズニーシー」とかいう大量のゴミ(失礼)にイライラして、「お願い、今は自重して」と念じながら、ようやく現地の様子を写真付きで報告しているのにたどり着きました。とりあえず、キャストが懸命にケアしてくれているのがわかって女性に伝えると、彼女は丸一日かけて娘さんを車で迎えにいきました。

現場で働いている人は東北出身の人が多いので、しばらくカオス状態になりました。気の毒過ぎて詳細は言えません。

こういう事態の時、真っ先に知りたいのは、家族や親戚の安否だってことを身をもって知りました。そう言えば、スマホの普及が進んだり、LINEなどの連絡ツールが開発されたのはこの震災がきっかけだったと記憶しています。

それからは、仕事場では東北に工場のある建築資材がストップして大騒ぎになったり、節電に悩まされたり、近隣からの怒鳴り込みが酷かったり。家では、余震のたびにひどい揺れと軋み音がする古いマンションに怯え、かと言って外出してもゴーストタウンのようになった横浜の街が返って侘しく。

私たちですらこの有り様なのだから、被災地ではいかばかりか、と。私としては過去最高額の募金をしながらも、「こんなの、気休めにしかならないんだろうな」と虚しい気持ちに苛まれたりしました。街角インタビューで「楽しい事をする気になれない」と言った人がいましたが、同感でした。

こんな非日常の日々がどれくらい続いたでしょうか。淡々と過ごしていたつもりなのに健康も危うくなり、次の仕事も危うくなりました。そこから10年も続けて来られたのは、運と縁のおかげです。ありがたい事です。

縁と言えば、2人とも、それまで東北方面にほとんど行ったことがなかったのですが、以前書いた花屋「カタル葉」さんと知り合って、娘がダンスを通してイベント等に関わるようになり、福島在住の知人がこの10年で一気に増えました。何度も東北に足を運ぶようになったのも、それがきっかけです。

出かけていくと、災害の爪痕があちこちにあるのが目に飛び込んできて、思うことが増えていきました。福島県白河小峰城は、2017年夏に行った時には震災で崩れた石垣や本丸は立ち入り禁止でしたが、翌年2018年夏に再訪した時には修復が完了し、晴れて見学できました。あの感動は言葉では言い尽くせません。大切な物を維持していくっていうのは。

それからは、地震で損傷した熊本城に募金しつつ「待っててよ、近い内に行くから」と心に誓ったりもしました。昨年の夏に行けるはずだったのに‥。いや、言うまい言うまい。きっと、近い内に。

逆に、2019年2月に行った沖縄の首里城が焼失したニュースにショックを受けました。体調不良以外で早退したのは、マイケル•ジャクソンが亡くなった時以来です。精神不良、です。

出かけていくと、その場所の空気が少しずつ自分の一部になっていく心持ちがします。その土地の名前が、ただの記号ではなく何か慕わしい人の名前のように感じます。そこに住んでいる人たちも数字ではなくなっていきます。

人類は、最後の氷河期に追い詰められて、想像力をはじめとする高度な脳の機能を獲得した、と言います。災害は•••こんな悲しいことはありません。絶対に何かを獲得して次世代に繋いでやる、そう思いながら。

 

今日はここまで。

では